[#挿絵(img/01_000.jpg)] [#挿絵(img/01_000b.jpg)] [#挿絵(img/01_000c.jpg)] [#挿絵(img/01_003.jpg)] [#挿絵(img/01_005.jpg)] [#地付き]イラスト/えむかみ   [#挿絵(img/01_007.jpg)]   プロローグ  死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる!  三つ編みにした頭の中でそうリフレインさせながら、戸田夏子《とだなつこ》(17歳)は屋上へ続くコンクリートの階段を二段飛ばしに駆け上がった。  鉄製の古い重たい扉《とびら》を内側から開け放つと、いきなり強い雨が吹きつけてきた。まるで、制服を着た自分を校舎の中へ押し戻そうとするみたいで、いっそう夏子は頭にきた。  そうだわっ。  夏子はふと思い立ち、足を止めた。  遺書を、まだ書いてなかったっ……!  そうか、落ち着いてまず遺書を書け、と雨は言ってくれたのかと解釈しながら、夏子は今のぼってきたばかりの寒い階段を駆け下りた。オリジナルの丈のスカートを翻《ひるがえ》し、二階ぶん駆け下りると、二年F組の自分の机に取って返し、ペンケースのファスナーを引き開けて色付きの極細ペンを掴み出した。  せっかく死ぬというのに、誰のせいなのか明らかにしておかなければ、死んでも死に切れないわ!  一世一代の遺書を書いてやる。  書いてやる……!  夏子は眼鏡の細い銀色のフレームを右の人差し指で押し上げると、オレンジのペンのキャップを外した。(さあ、遺書を遺してやるわ。誰のせいなのか、しっかり遺《のこ》しといてやるわっ。書き立てろ週刊誌! 押しかけろ、ワイドショー)  ところが、 「あっ。レターパッドがない」  夏子は机の中を覗いて小さく舌打ちした。  わたしが遺書を書こうというのに、適当な紙がないなんて……!  このわたしが遺す遺書であるからには、ルーズリーフやレポート用紙では駄目《だめ》だわっ。  夏子はがたっ、と椅子《いす》を立つと、今度は放課後の雑踏《ざっとう》の廊下《ろうか》を早足に歩いて、青香《せいか》女学院《じょがくいん》の高等部中央校舎一階にある学生購買部へ駆け込んだ。  ところが、 (なんていうこと。ろくなレターパッドがないわ)  舌打ちした。  これも駄目、これも駄目。ああもう、なんなのよこの白いネコは!? なんていうセンスのひどさなの。もうちょっと品のいいグレーの便箋《びんせん》とか、置いてないのかしらばかやろう。  この皿では私の料理は載らないんじゃ、と安物の食器を拒否するドラマの中の料理人のように、夏子は眉《まゆ》をひそめて頭を振った。  仕方がない、外の文房具屋だっ。  夏子は昇降口《しょうこうぐち》で傘立《かさた》てから校章入りの自分の紺色の傘を引っ掴むと、下校の下級生や上級生がひしめく石畳《いしだたみ》を走って、石造りの校門を出た。  そのまま地下鉄|日比谷《ひびや》線|広尾《ひろお》駅へ続く商店街を、濡《ぬ》れた絵タイルを蹴《け》って走った。 (文房具屋、文房具屋……!)  夏子の両側に流れる景色。真新しいオープンカフェと、古くからある個人商店が互い違いに並ぶ通りを駆けると、洋書も扱っている二階建ての書店がある。青香女学院の創立以来の御用達《ごようたし》で、輸入文房具も置いている。  だが、 (——!)  書店の十メートル手前で、夏子は急に脚を止めてしまう。 「う、く」  下校する生徒たちの後ろ姿の群れの中に、|嫌な《ヽヽ》ものを見たからだ。 「くくうっ」  本能的に、脚がそちらへ向かうことを拒否した。どうすることもできなかった。  夏子は直角に左へ祈れ、商店街の裏通りの路地へと駆け込んだ。脚がその場から『離れたい』と言い出し、いうことを聞かない感じだった。出合い頭《がしら》にゴルフバッグを担いだ三十くらいの男とぶつかりかけたが、驚く男を体当たりで押しのけるようにして駆けた。  店舗《てんぽ》の裏口に肩がぶつかりそうな狭い裏路地を、息を切らせて走った。迷路のような中、行き当たりばったりにただ駆けた。自分は何をしているんだ……? とふと思っても脚は止まらない。角を曲がった途端、今度は中華料理屋の裏口から出てきた店員らしい若い男とぶつかりかけ、押し倒すように引っくり返していた。アジア系らしい店員は銀縁《ぎんぶち》眼鏡の女子高生が物凄い形相《ぎょうそう》(もうすぐ死のうと思っているのだ)で突っ走ってきたせいか、「ひっ」と悲鳴を上げ、路地の水溜まりに仰向けに転び、手にした皿を放り出したが夏子には詫《わ》びを口に出す暇《ひま》もない。そのままスカートを翻し、店員の頭上を飛び越えて水溜まりの向こう側へ着地すると、また走った。  気がつくと、二子玉川《ふたこたまがわ》のデパートの専門店街でクレインの灰色のレターパッドを手にしていた。 (……!?)  はつ、として顔を上げると、夏子はそこがデパートの別館の二階であることに目を見張ったが、自分がいつ地下鉄の駅から田園都市《でんえんとし》線直通の中央林間《ちゅうおうりんかん》行き電車に乗ったのか、全然覚えていなかった。  わたし、何をしているんだ……。  二秒間考えて、遺書に使う便箋の紙を探しに校舎を飛び出したのだ——と思い出した。 (はっ、そうだわ。こうしている場合じゃない)  もうすぐ死ぬというのに、この世の仕組みである『お金を払うこと』になんの意味があるのだろう——ふと、そうも思ったが。青香の制服を着た女子生徒である自分が、便箋を万引きするなんて『矜持《きょうじ》にかかわる』と思い直した。  こんなくだらないわたしの自尊心も、もうすぐこの宇宙に、拡散して消えてなくなってしまうのだわ……。  渋谷《しぶや》行きの上り電車に乗り直し、文具店の紙袋を制服のスカーフの胸に抱いて、冷たい窓ガラスに額の左横を押しつけながら、夏子はそう思った。  ごとん、ごとん  レールの響きが、顔に伝わってくる。窓の外は、立ち並ぶマンションの群れが斜めに流れて、電車が再び地下に潜る。  さよなら、くだらない世界—— 「……」  窓から視線を伏せると、自分の足首を包む白いソックスが、泥水の色に染まっている。  はっ。しまった……!  夏子は目を見開いた。そうか。さっき裏路地を走ったせいだ。なんということだ。  飛び降り自殺でこと切れた女子高生のソックスが、茶色くでろでろに汚れているなんて……。  許せない。  許せない、と思った。  これから自分は死ぬのだ。飛び降りて死ぬのだ。しかし、屋上から飛び降りた正面玄関ロータリーのタイル張りの車寄せて雨に打たれて俯《うつぶせ》せに倒れている自分の死体は、発見された時に、ソックスが真っ白でなくてはいけない。  そうでなくてはいけない。  そうでなければ、わたしではない——そう夏子は思った。  どうしよう。  学校指定のソックスは、一番近いところで銀座《ぎんざ》のデパートまで行かなければ買うことができない。  しかし——  どうすればいい。  この電車で、乗り換えて銀座のデパートまで出かけて、そこで新品のソックスを買って学校へ戻ったとしたら……。  おそらく飛び降りるのが、日没後になってしまう。それはまずい……。ただでさえ、ここ数カ月、学校周辺では『変質者が出没する』という報告がされ、青香の学校当局は生徒たちに早めの下校を強要している。グラウンドを使う運動部の連中も『日が暮れる前に必ず帰れ』と命じられているのだった。新しいソックスを買ったりしていては、その間に校舎から誰もいなくなってしまう。飛び降りた自分が発見されるのが、明日の朝になってしまう。  このわたしの身体が。  夏子は、胸のスカーフを見下ろして思う。この身体が、俯せで血を流したまま、一晩も雨の中に放置されるなんて……。  唇《くちびる》を噛《か》み、髪を三つ編みにした十七の少女は、頭を振った。  絶対に許されることではない。  自分の死体は、あくまでまだ新鮮な状態のまま、駆けつけた救急車に乗せられなくてはならない。  白衣の救急隊員が担架《たんか》を担ぎ上げる周囲には人垣ができ「二年の戸田さんが死んだんだって」「飛び降りたんだって」「どうしたのかしら」「何があったのかしら」という無数のささやきの中を、ばん、と後部扉を閉めた救急車は発進し、サイレンが空気を震わせ、赤い回転ランプの光が校舎前の緑を新鮮な血のように染めていくのだ。  それは、美しくも鮮烈《せんれつ》な光景に違いなかった。  そして、教室の机の中から発見される遺書——  夜十時のニュースで公開される、その遺書の衝撃的な内容(そうだ、学校が姑息《こそく》にも握り潰す前に、ちゃんとテレビ局にも送っておかなくては)。十七歳で自ら命を絶った少女の叫び……!  そしてわたしを死に追いやった者たちよ、己《おのれ》の〈罪〉を一生背負うがいい……! 「うう」  それを。その美しい段取りを……。駄目だわ、このわたしの身体が雨の中、真っ暗闇の校舎前のタイルに一晩中、放置されるなんて。悲劇の主人公が、雨ででろでろになって、見つかるのが翌朝になるかもしれないなんて……! 一晩も雨の下に放置されたら、この身体はどうなってしまう? そんなことは絶対に許されていいことではない。  夏子は日を上げ、決心した。  学校指定のソックスでなくても、この際、いいわ——!  画竜点晴《がりょうてんせい》を欠くが、校章のワンポイントが入っていなくてもいい。夏子はうなずくと、途中の渋谷で電車を飛び降りた。階段を駆け上がり、東急《とうきゅう》百貨店の一番手近な店で、白い無地のソックスを買い求めた。  化粧室へ駆け込み、個室の中で穿《は》き替えた。  脱いだ泥水で汚れたソックスを、指でつまみ『どうしようか』と思った。 (もったいないわ。洗えば、まだ使えるのに——)  また、はっとした。  そうだ——もうすぐ死ぬのだから、洗ったってもう穿けないわ。  夏子は思い直し、ソックスに「ごめんね」と言いながらごみ捨てに放った。  これでよし。 (——)  だが化粧室を出ようとしたところて、脚が止まる。  振り向いて、もう一度、洗面台のごみ捨てを、指で開けて覗いた。ざわついた百貨店の誰に使われるのかも分からないトイレの片隅の屑籠《くずかご》の中に、夏子がつい今まで穿いていたソックスは、丸まり転がっていた。 「……」  夏子は、屑籠の中で丸まった校章入り靴下を拾い上げると、手で伸ばした。やっぱりソックスを買った店の紙袋に入れ、文具店の袋と一緒にすると手に持った。 (……こういうことは、理屈ではかれることではないわ——)  息をつくと、化粧室を駆け出て、駅の方へ取って返した。  雨の駅前には、コンコースのひさしの下に募金を募《つの》るグループが箱を胸の前に抱え、横一列になって声を張り上げていた。コンクリートのひさしに、少女たちの声が合唱のように反響する。  構わず、前を通ろうとすると、 「戸田さん」  声をかけられた。  気のせいだろうと思って、そのまま行こうとすると、 「戸田さん」  また呼ばれる。 (——!?)  立ち止まると、列に見知った顔があった。  夏子は目を見開いた。  なんだ……。  自分と同じ制服が、胸に募金箱を大事そうに抱え、こちらを見ていた。 「……立木《たちき》?」  驚いた。  同級生の一人だった。しかし夏子は、そこに知り合いがいた——という事実より、声をかけてきた相手そのものの様子に驚いた。意外だった。  ふだん教室では、印象が薄くて、みずから他人に声などかけない。そういう性格なのだと思っていた子が、街頭で急に横から自分を呼んできた。  それも、明るく張りのある声だ。  そのせいで夏子は、五秒前まで考えていた飛び降り方の方法——前から飛び降りるか後ろ向きに飛び降りるが——の検討を一瞬忘れ、訊《き》き返していた。 「立木さん——あなた何してるの?」  こんなところで。しかも制服で——  だが、 「うん。ボランティア活動」  気にする風もなく、色白の同級生はうなずいた。  立木|容子《ようこ》は、学校で同じクラスだったが——でもなぜだろう? 不思議に、教室で見る時よりも表情が明るい。ふだんは引っ込み思案《じあん》の印象なのに、声が大きい。 「アジアの、恵まれない人たちのための募金よ」 「募金よ——って……」  夏子は瞬《まばた》きをした。  おそらくこの子は、下校してすぐにここへ来て、箱を持って立ったのだろう。 「戸田さん、お買い物?」  逆に訊かれてしまう。 「——え、あ」  夏子は二つの紙袋を、制服のべージュ色セーラーの上着の後ろに隠した。 「な、なんでもない」 「そう。じゃ」  立木容子は、ボール紙の箱を夏子の顔の前へ突き出した。 「募金して。十円でもいいわ」 「いいわ——って……」  夏子と同じくらい、色白の少女。  自分から他人に声をかけたり、「募金して」と軽く要求したり、そんなことのできる子だとは思っていなかったので、夏子は面食らう。 「……立木さん、あなたね」  夏子は立木容子の制服姿を、上から下まで眺めた。十人ほどの女子高生が、並んで声を上げている。容子はその中の一人だ。さまざまな学校の生徒たちらしいが……。  その女子高生たちの列の後ろに、ノーネクタイに上着の目の細い中年の男と、ジーンズに黒Tシャツの若い男が立って、監視するように見ている。  お願いします、お願いしますという大きな声。 「これ、学校で奨励《しょうれい》している募金と違うでしょ」  夏子は声を低めた。 「制服で、こんなのに参加してて、いいの。学校の許可取った?」 「いいのよ」  せっかくわたしは気分がいいのに、嫌なことを思い出させないで——とでも言いたげに、立木容子は頭を振る。  容子は、髪は夏子のように三つ編みにはせず、校則すれすれの長さだ。スカートも短い。  周囲に染まるものか、という意志が明確に表《あらわ》れている夏子と遠い、みんなと同じような格好だ。制服が青香女学院のベージュ色の上着に紺色スカートのセーラーで、それだけが居並ぶ他校の子たちよりも目立つ。  夏子が向かい合って立っていると、募金活動をしているのは夏子のほうではないのか、という印象がある。 「許可なんか、取ってないよ」容子は言う。「でも青香の制服て立っていると募金がよく集まるって、事務局の人たちも喜んでくれるし」 「——」 「ね。十円でいいわ。入れてよ」 [#挿絵(img/01_017.jpg)]  気づくと、夏子の後ろに数人の男たちが並んでいる。  他にも、声を張り上げる女子高生の募金箱に、通行人の中から何人かの男が立ち止まって、財布の金を入れている。  でも、夏子の背中に並んでいる男たちは、青香の制服を着た容子の箱に入れたいらしい。夏子の話が済むのを待つように、黙って並んでいる。 (——うぇ……)  仕方なく夏子は、スカートのポケットから自分の財布を取り出す。がま口の部分を開くと、ソックスの釣《つ》り銭《せん》が百十四円、あった。  チャリン 「ありがとうございましたあっ」 「——」  なんだ? この子は、こんなに明るい声を出すのか——? 驚きながら、夏子は改札口へ向かった。  あの子——  夏子はふと振り返った。  あの子、教室ではみんなに溶け込めず、風景の一部みたいになっちゃっているのに……。  ふだん、立木容子から感じるのは、極端な優しさ、おとなしさ。他人への気づかい過剰《かじょう》、指でつつくと跳び上がるような神経の過敏さ。情け容赦ない少女たちの世界で、生きていけなくなっている—— (あんなに元気そうな姿、初めて見たな……)  そこまで考えて、はっとした。  そうか。わたしは、もう死ぬんだ。  他人のことを気にしても仕方ない。  人波に混じり、階段を駆け下りた。 (……生きていけなくなってるのは——)  夏子は再び電車に乗ると、十五分で学校へ戻った。  雨はすっかり上がったが、曇り空のままだ。  おあつらえ向きだ、と思いながら、誰もいない二年F姐の教室の机で遺書を書いた。  そういえば、遺書って、誰かに宛《あ》てて書くものなのかしら……? 特定の誰か? 親……? まさかね。嫌よ。  夏子は頭を振り、一人の教室の中で息をついた。いいや、不特定多数へ宛てての遺書だっていい。  要は、わたしがなぜ死んだのか——いったい誰のせいなのか、世間のみんなに分かればいい。 (ええと、皆さんさようなら——わたしは……)  淡いグレーの便箋に、極細オレンジの色ペンで夏子は遺書を書き始めた。  しばらくは頭の中から紡《つむ》ぎ出すフレーズに、気持ちを集中させた。 「ええと——漢字、漢字……」  ペンの頭でこめかみをつつきながら、浮かばない漢字を思い出そうとする。かげろう、かげろう——って、どんな漢字だったかしら。ああ、出てこない。平仮名でいいかな。ああでも、死んだあとでワイドショーの画面にこの遺書が出た時『かげろう』が平仮名では……。 「……ええと、辞書、辞書」  自分の机の中を探る。紙屑《かみくず》が多いのに舌打ちし、辞書を捜すのを中断して古いプリントや学園だよりを引き出してまとめ、教室の屑籠へ突っ込んだ。  自殺した女子高生の机の中が、整理されずにごちゃごちゃだったら、何を言われるか分かったもんじゃない。亡《な》くなった戸田夏子さん(17歳)は、三つ編みに長いスカートで日頃は図書委員を熱心に務《つと》め、周囲に染まらない古風な孤高《ここう》の生徒と評判でしたが、なぜか教室の机の中は紙屑だらけで、意外に見た目よりも分裂気味でルーズな性格だったと——ええい、そんなふうに言われてたまるもんですか。  たっぷり三分もかけて机の中を整理し、それから、取り出した辞書をめくった。 「十七年間、溜まった水の中で暮らしたわたしは、蜻蛉《かげろう》のように——よし、ここはやっぱり漢字だわ」  前半部分を書き、いよいよ後半で、自分が死を選ぶに至った〈原因〉を明らかにしようとした時。 「詩を書いているんですか?」  ふいに頭の後ろで、声がした。 (——!?)  びくっ、として振り向いたが。  なんだ……?  夏子は誰もいない教室の空間に、目をしばたたかせる。  自分以外に、誰もいない。  今の声は、なんだったんだろう……。  首を傾《かし》げた。  以前、文芸部の子に入部を誘われたことがある。その子の声だったろうか——? わたし図書委員はしているけれど、確かに読書はするけれど自分で書くつもりはないわ。そう言って断った記憶がある。文芸部の子は、夏子の修学旅行の作文を読んで『創作の才能がある』と感じたのだという。文芸部といっても、堅苦しくないですよ。一緒にファンタジー小説を書きませんか。 (誰が、現実|逃避《とうひ》のファンタジーなんか……)  人のいない空間を見回して、夏子は心の中でつぶやく。 (逃避するより、わたしは死を選ぶんだよ——気のせいだったのかな……?)  再び、紙の上のフレーズに気持ちを集中させると、今度は誰の声も聞こえなかった。  自分がこれから死ぬ〈理由〉を、灰色の便箋の上にしたためる。  窓の外で、部活の連中が声を張り上げるのが風に乗って聞こえてくるだけだ。庭球《テニス》部の声、合唱部の歌、演劇部の発声練習、一番うるさいのはチア部のかけ声だ。あいつらの黄色い声は耳に障《さわ》る……。  遺書の最後の三行で、一番書き残したいことを具体的に書いた。関係する人間の実名も入れた。 「……さあ、できた」  でき上がった一枚の便箋を手に、夏子は立ち上がった。  いいわ——いいわ、これはまるで、灰色の紙でできた上等な爆弾のようじゃない……!  同時に頭の上のスピーカーが息をつき、ドヴォルザーク交響曲「新世界《しんせかい》」から〈家路《いえじ》〉のメロディーを雑音とともに吐き出すと、放送委員の声が『下校時刻十分前です。全校生徒の皆さんは、下校しましよう。明日も元気で学校にまいりましょう。ごきげんよう』といつものとおりに棒読みした。 「下校してあげるわよ。明日は、来ないけど」  チア部の子たちらしい喚声《かんせい》が、ひときわ高くきゃあっ、と響いてきた。 (——)  苛立《いらだ》たしげに眉をひそめると、夏子は教室を駆け出て、二階にあるパソコン実習教室へ下りた。  青香女学院は百年近い伝統があるので、生徒から初の自殺者が出た場合(これから出るのだが)、学校当局は見つかった遺書を握り潰すかもしれない。そうさせないためには、完成したばかりの遺書を、在京テレビ各局へ送っておかなくてはいけない。 (——スキャナーで読み取って……)  しかし夏子は舌打ちする。パソコン実習教室の入り口には、鍵《かぎ》がかかっていた。  何よ。  わたしの行動を、邪魔《じゃま》しようとして……!  ムッとして、急いでまた校舎の階段を下りた。  実習室の鍵は、たぶん一階玄関脇の教務事務室に保管してある。日直当番の時に、取りにいったことがある。まずいな、教務事務室に誰か職員がいたら……。  そう考えながら階段を下りていくと、階下からぱたぱたと数人の足音が聞こえた。急いでどこかへ、駆け出ていく気配。夏子が一階の廊下へ下り立った時には、教務事務室や受付には誰もいない。  しめた、職員も締め切り当番も、誰もいないわ。  夏子は廊下の左右を見回しながら、教務事務室へ忍び込むと、壁のボードに掛けてあった鍵の一つを掴み取り、また階段を駆け上がった。  二階の実習教室へ戻ると静かにドアを閉め、ずらりと並んだパソコンの一台を起動して、スキャナーに遺書の便箋を読み取らせた。 「これを、添付《てんぷ》してと」  作業に集中していると、一人の室内は静かだ。  窓の外て、また「きゃぁあっ」と女子生徒の喚声が上がる。なんだ、悲鳴か? あれは——  気にしている暇はない。遺書をメールに添付して、送る準備をする。各テレビ局のアドレスは分からないが、局のホームページを開いて調べればいい。 「え」  ところが、どうしたことだろう。操作している画面が、インターネットに接続しない。 「何よ、これ——『接続制限』……!?」  このコンピュータはインターネットに接続できません、というメッセージが繰り返し表れて、解除できない。  実習教室のパソコンでは、テレビ局のホームページが開けないのか。  あったまくる……。生徒が遊びに使わないように、外部への接続制限をかけているのか。せこいぞ、学校!  これでは、遺書をテレビ局へ送れない。  どうしよう—— (——)  夏子は、画面を睨みながら唇を噛んだ。  窓の外で、パン、パン! と乾いた何かの破裂音がした。きやーっ、と数人の女子生徒の悲鳴らしきものが上がったが、考え込んでいる夏子の意識には入ってこない。 「うぅ……」  自分で書いた〈遺書〉のスキャナー画像に、十七歳の少女は頬杖《ほおづえ》をつく。  あらためて、その文面を睨《にら》むようにたどる。  すると、 「……」  銀縁の眼鏡の下から、透明な水滴が一粒《ひとつぶ》、こぼれ出るとその頬を伝いおちた。  ——『死ねば』 (……あんなこと、言われて——)  脳裏《のうり》に甦《よみがえ》った声に、夏子はきつく目を閉じた。  ——『生きてる値打ちないんじゃない。死ねば』  あんなこと言われて、生きていられるか……。 (わたしは——)  ぐすっ、と夏子はすすり上げると、眼鏡のフレームを人差し指で上げ、まぶたをぬぐった。 (——わたしは、あいつに、あの連中に、あんなことを言われた瞬間、このくだらない世界にいるのが心から嫌《いや》になったんだ……。あんな連中ののさばる世界に、生きて付き合ってやるなんて……心底、嫌けがさしたんだ)  でも、どうしよう。  夏子は考える。  遺書をテレビ局へ送れないのなら……。  自分が死ぬ〈理由〉を、紙の上に整理して書いたせいだろうか——? 屋上への階段を駆け上がった一時間前より、気持ちが落ち着いている。  周囲を、見回す。  青香女学院。ここは創立されて九十九年という、名門校だ。五年前、中等部の入学試験に合格した時は嬉しかった。自分もこの制服が着られるのだ、と思うと——  合格発表の日は、嬉しかったっけ……。  胸の青いスカーフを見下ろし、夏子は思った。 (この制服が着られる、って……)  入学したら。  十二歳だった自分は、どきどきしながら想像したものだ。  このこんもりした緑の学舎へ通うようになったら、わたしは、受験勉強で知った明治時代の歌人の女性のように、静かに、思慮《しりょ》深く毎日を暮らして教養を積もう。昔、戦争に向かう日本で「どうして天皇は戦場へ行かないんだ」と詠《よ》んだその歌人のように、世の中のことに対して自分だけの『見方』が持てるようになろう。そして、大正時代の小説に出てくる文学少女のように、木陰で本を読もう——  きゃぁあああっ  また窓の外から喚声が、ガラスを震わせるように伝わってきた。 (——)  夏子は白い耳をぴくりと震わせ『チア部め』と心の中で罵《ののし》った。  でも、この学校は——  明治以来の伝統を堅持《けんじ》する、名門といわれる女学院だ。一方で生徒が屋上から飛び降り自殺などしたら、きっと大慌てで遺書を握り潰すに決まっている。  テレビ局——在京の民放各局(NHKはたぶん駄目だ)へ、この遺書をなんとかして届けておかないと、死ぬに死ねない。コピーして郵送……? 今からでは着くのが明後日《あさって》になる。今晩のニュースに間に合わない。それに、せっかく由緒《ゆいしょ》ある老舗《しにせ》メーカーの灰色のレターパッドにわたしの直筆でしたためた繊細《せんさい》な文面が、コピーなんかしたら無粋《ぶすい》になるわ。 (——どうしようかなあ……)  夏子は、天井を見上げて息をつく。  その唇から、つぶやきが漏れる。 「……今日はよすか——死ぬの」  こういうのって、勢いだからなあ……。  遺書をスカートのポケットに入れ、夏子はとりあえず、寒い階段をのぼってまた屋上へ出た。  ひゅぅううう  雨は上がっていたが、風が吹きつけている。  人けはない。校舎からはみんな、下校したのだろう。 (——)  夏子は、まだ濡れているコンクリートの屋上を歩き、中庭を見下ろす手すりに近づいた。  鉄製の手すりは錆《さ》びていて、いったい造られて何十年経つのだろう、手前に〈修理中 危険につき立入禁止〉のロープが張られている。  そうか。この間の台風で、根こそぎ倒されかけたって……。  構わずにロープをくぐり、茶色い鉄製のフレームに手をかけると、キィと鳴いた。  なんだ。ぐらぐらする……。  応急処置だろうか、金属製のワイヤーが一本、手すりと屋上の排気筒を結んでいる。手すりが動かないようにするためか——? さまざまな工事用と思える機材が脇に置かれたままなのは、今日の雨のせいで修理作業が休みなのだろう。  工事関係者がいないのは、好都合《こうつごう》だ。  気を付けて手すりに両手で掴まり、夏子は身を乗り出して下を見た。 (わあ、高い……)  四階建ての、古い石造りの校舎だ。屋上は五階の高さということになる。飛び降りて死ぬ予定の正面玄関前の車寄せが、ちょうど真下よりやや左手に見えた。車寄せは硬い石畳だから、一瞬で死ねること請《う》け合いだ。  うーん、これは高いわ……。  夏子は感心した。  でも痛いだろうなぁ、死ぬ時—— (いや、飛び降りた瞬間に意識がなくなるって、聞いたことがあるわ)  でもそんなこと本当なのか、誰にも分からない。 「——」  夏子は、玄関前の車寄せの石畳を、乗り出した姿勢のまま食い入るように見た。  どうしようかなあ……。 (……やっぱり)  やっぱり今日は家に帰って、とりあえず風月堂《ふうげつどう》のプリンでも食べようか——  ふと、そう思った。  そういえば買ったまま、食べてないのがあったっけ……。  せっかく買ったプリンを食べずに、死ぬのもどうだろうか——風月堂のだもの……。家の冷蔵庫の中段にあるはずの、ガラスカップに入ったキャラメル・カスタードを思い浮かべた、その時。 「きゃぁあああっ!」  見下ろす視界のどこかから、また女子生徒の悲鳴。  なんだろう……?  夏子はやっと、自分を取り巻く外の世界へ関心を向けた。 (なんなのかしら? さっきから、しきりにうるさい悲鳴のようなものが——)  眉をひそめた、その時。  唐突に視野の右下から、黄色とオレンジのコスチュームがばらばらっ、と駆け出てくると、逃げ散るように左上へ走っていく。  なんだ。  短いスカートのコスチュームたち。  チア部の連中じゃないか。運動場で練習していた——  何を騒いで走っているんだ……?  だがチアリーダー部だけではなかった。続いて白いユニフォームの庭球部の子たちも、大勢走っていく。みんな校門の方へ逃げていく……?  それらを目て追うと、  パンッ (——!?)  破裂音とともに、黒っぽい影がふいに視野の右下から、駆け散る少女たちを追うように出現した。  なんだ。  男……!?  夏子は目を見開く。  何者だろう。ずんぐりした黒い影は、視界の中央でこちらに背を見せて立ち止まると、手にした長い棒状の物体を構え、逃げ散る少女たちに向けた。  パンッ  白い煙。 「——!?」  夏子は目を剥《む》いた。  うぉぁおうぁっ  棒を構えた男が、吠えた。  なんだ。今のは、人間の声か——!?  いったい、何をしているんだ。  さっきからなんの騒ぎが——  ギキィッ 「……きゃっ」  思わず体重をかけたのがいけなかった。老朽化《ろうきゅうか》しきった鉄製の手すりは茶色い悲鳴を上げ、ぐらっと外側へ傾《かし》いだ。  ギキキキキッ 「うわっ」  夏子は一瞬、身体の支えを失って宙に浮くような気がした。その金属の悲鳴を聞きつけ、眼下のずんぐりした影がこちらを振り仰ぐ。  あの男……!? [#挿絵(img/01_029.jpg)]   第一章 広尾上空いらっしゃいませ         1  夏子は、傾く手すりに思わず掴まりながら、その影をどこかで『見た』と思った。  しかしそれが、小一時間前に商店街の裏道ですれ違った三十くらいの男だとは、気づかなかった。自分の外側の世界に、ほとんど目がいっていなかったからだ。  なぜ、男が青香女学院のキャンパスに侵入して、手にした猟銃らしきもの——そう、あれは銃だ——を振り回し発砲しているのか? 眼下で何が起きているのか。  だが考える暇もない。男の手にした銃が振り仰ぐように夏子の方を向く。その手が、恐ろしい素早さで弾丸らしさものを装填《そうてん》する。 「う」  夏子は思わずのけぞって後ろへ逃げようとするが、その腕の反作用で、手すりはかえってまた外側へ傾ぐ。倒れる。 「うわ、わ」  体重のかけどころがない。しがみつくしかない。  パンッ!  白煙と同時に、  カィンッ! 「きゃっ」  何かが倒れかかった手すりのどこかを強烈に打撃し、伝わる衝撃で夏子の手も打った。 「きゃぁっ」  ガキキッ。衝撃でどこかの支柱が折れたか、手すりは夏子をしがみつかせたままさらに四十五度以上、外向きに倒れ、波打つように揺れた。  フレームを引き留める金属ワイヤーがたわみ、きゅわんきゅわんっ、と鳴く。  まるで鉄製の梯子《はしご》に乗せられ、屋上から宙へ振り出された形だ。夏子は思わず、必死に掴まるが、 (——!?)  目が合った。  地面で銃を構える男と、夏子は一瞬目が合った。なんだ、気持ち悪い、あの目はなんだ  暗い。  背中がぞっとする。 (まるで……)  だが考える暇もなく、  パパンッ  続けて白煙。 「——わっ!?」  その時。  のちに〈青香女学院無差別乱射事件〉と呼ばれる事件の、惨劇が最高潮に達したその時。  男が女学院の構内に持ち込み、女子生徒たちに向けて撃ちまくっていたのは散弾銃ではなくライフルだった。  屋上から見下ろしていた夏子を狙ったと思《おぼ》しき銃弾は、二発とも外れ、一発は老朽化した手すりの支柱を打撃し、二発目はあろうことかフレームを引き留めていたワイヤーの付け根を撃ち抜いた。  パシッ!  ふわっ 「きゃ」  夏子の身体に、銃弾は当たらなかった。しかし雨に濡れた鉄製のフレームをかろうじて引き留めていたワイヤーが弾けるように切れ、手すりは外側へ展開するように倒壊し、波打って、しがみついていた体重の軽い女子高生を弾き飛ばした。  宙に浮いた夏子は慌ててフレームを掴もうとしたが、手が滑《すべ》った。  つるっ 「きゃ——きゃぁああああっ!」  あとはもう、どうしようもない。  宙に放り出され、どこにも掴まれない。  夏子は落下した。なすすべなく長いスカートをなびかせ、五階の高さの屋上から地面へと、真っ逆さまにおち始めた。  それが——  出会いのきっかけだった。  夏子とウィノアの、運命の出会いの刻《とき》だった。  きゃぁぁあああっ  おちるおちるおちるおちる——わあもう駄目だ、地面がくるっ……!!  猛烈な勢いで視界に拡大する地面を、夏子は悲鳴を上げながら見ているしかなかった。その視界の真ん中に、驚いてこちらを見上げ固まっている銃を手にした男——こちらへ銃を向けようとし、暗い目をいっぱいに見開くが——うわぁ駄目だぶつかる、真っ逆さまに男の顔目がけてぶつかっていく、嫌よやめて、あんなところにぶつかりたくないよぉっ……!  その瞬間、  ピカッ  視界が真っ白に、まぶしく輝いた。 (——!?)  なんだ……  だがそれきり、夏子は意識を失ってしまう。    *    *    *    * 「だいたいさ」  高い窓の外は、雨。  しんとした図書館の空間に、こするような足音ばかりが響く。古い床板を、上履《うわば》きたちが歩く音。  年季《ねんき》の入った貸出カウンターの、黒光りする机をボールペンで小突きながら、自分はつぶやくように話している。 「あんたさ、そうやって座ってる間ずっと膝《ひざ》をくっつけてるのって、疲れない?」 「——え」  放課後の司書当番は、過に二度回ってくる。各クラス一名の図書委員から、持ち回り当番で四名ずつ出て、学校の図書館の貸出係と、返却本整理をする。そのほかにもリクエストカードの分類、新着本のカバー掛けまで、やることは多い。  生徒が図書委員になるのは、だいたい二通り。読書好きの子が「どれかの委員会をどうせやらされるなら、わたしはこれ」と選んでなる場合と、整理作業など雑用が面倒そうなのでクラスのみんなで押しつけ合った揚《あ》げ句《く》、一番押しの弱い子がやらされる場合だ。  だから図書委員会の会合に出ると、変に理屈をこねる奴と、妙におとなしい子の二種類ばかりが目につく。  ああそうか、わたしはその—— 「あんたたちさ」  あんたたち。  そうだ……学園の中で、いつしか自分は、自分と、自分でない周囲のみんな——を違うものとして分けて考えるようになっていた。いつからだろう。 「あんたたちって、民族の遺伝子に操られているのが情けなくない?」  隣に座った違うクラスのおとなしい子——おとなしいくせに、格好はみんなとちゃんと同じなんだ。どういう意志を持って、そんなふうにしているのよ。そういう子を見ると問い詰めたくなる——に向けて、自分は話しかけている。 「……えっ。どういうこと?」 「制服。入学式の時は、みんなオリジナルの丈《たけ》だったのに。みんないつの間にか同じように短くして。今では、わたしだけだわ。長いままなの」 「だって。みんな、そうしているし——このほうが、可愛いと思うし」  隣の子は、困ったように、貸出カウンターの下で制服のスカートの裾を直す。 「操られてるわね」 「え」  隣の貸出席の子は、『戸田さんがまた始めた』という戸惑った微笑を浮かべて、誰か本を借りる人が来ないかしら——と言いたげに周囲を見回した。 「あのね。背景には理由があるのよ。みんながみんなスカートを短くしたがるのは、日本の出生率がおちているからよ」 「——出生率、ですか……?」  隣の子は、目を白黒させた。 「そうよ」自分はうなずく。「大和《やまと》民族の遺伝子が『子供をつくれつくれ』って言っているのよ。ぎりぎりまで脚を露出《ろしゅつ》することによって、雄《おす》の生殖意欲を煽《あお》っているのよ。ところが反応するのは、みーんなおじさんばっかじゃない。あぁ情けない」  自分は、隣の子に自説をぶちながら、貸出カウンターに差し出されてきた本の裏表紙にバーコードの読取機を当てる。ピッ、と音がしてカウンターの画面に本の記録が出る。ろくに相手を見ないて貸し出し業務をしてしまうのは、いつものことだ。 「はい、返却は来週の火曜日です——だからさ、あなたも気づきなさいよ、自分たちが遺伝子に操られていることを。民族の遺伝子は、出生率が下がると困る。乗っかる固体数が減るからよ。でも遺伝子にとっては、乗っかる固体数さえ増えればいいのであって、それらが倫理的にどのような環境下でつくられた子供かなんてことは関係ないのよ。連中は、数さえ増えればいいのよ。だからあんたたちが、生殖器ぎりぎりまで脚を露出するエロい格好で不特定多数の雄の生殖意欲を煽りながら繁華街《はんかがい》を歩き回るなんてことが、いかに愚かな行為であるか、考察して自覚すべきだわ」 「ふん」  気づくと、別の声が頭の上でする。  冷たい声。 「頭よさぶって、馬鹿みたい。ださいくせに」 「——!?」  驚いて、目を上げると。  思わず顔をしかめたくなった(実際しかめていたと思う)。一番見たくない顔が、すぐ上から自分を見下ろしていた。  英理香《はなぶさりか》……!?  フン、と形のよい鼻が動き、本を手にした美形の少女は顎《あご》を少し上げるようにして、さらに見下ろしてきた。さらさらの髪《かみ》。  こいつ——! 「だっさーい」少女はその顔の角度のまま、鼻白《はなじろ》んだ。「相変わらず、何よその格好? あなたそんな格好で街歩いて、恥ずかしくないの? あっ、そうか。頭のいい人は感覚がみんなと違うから、平気なのかしらね。あたしなら恥ずかしくて死んじゃうわ。そんな長ったらしいスカートに三つ編みで眼鏡かけて、戦前の看護婦じゃあるまいし。自分という人間がどんなにださいか、考察して自覚するべきね。ふん」 「な——」  同じクラス。でも都内の私立校の男子たちと交遊が広くて、自分とはまったく違う世界に生きている少女。  こいつを、春の全校ディベート大会の時に、自分はさんざんやっつけた。見るからに気に入らなかったから、容赦《ようしゃ》なくこてんぱんにやっつけてやった。でも『見るからに気に入らな』かったのは、向こうも同じらしかった。  うっ、と嫌な圧力を感じ、思わず椅子《いす》にのけぞっていた。  派手な顔だちの少女は、睨み下ろしてくる。 「エロい格好で、悪かったわね。ださいのより遥かにましだけどね」 「——」 「目障《めざわ》りなんだよ、戸田夏子。偉そうに、理屈こねて。人に恥かかせて、人の言うことをいちいち揚《あ》げ足取ってやっつけて得意になりやがって」  英理香は、声を低めると、低めた分だけ毒を込めるように、額の上から言葉をぶつけてきた。 「ださいくせに。ブス。あんたそんなださくて、誰にも好かれてなくて、生きてる値打ちなんかないんじゃない? 死ねば」 「な……」  どうして、こんなに悪意を持たれたんだ。いつの間に——  死ねば——って……!?  議論を闘わせる場で、負けたからって、それを『恥をかかされた』と取るなんて……。  勝手で、ひどくないか——!?  だが自分が何か言い返す前に、美少女はさらさらの髪を翻すと、短いスカートからすらりと伸びた脚を誇示するように交差させ、図書館を出ていってしまう。  すれ違う下級生たちが笑顔で「英さん」「理香さん」と呼びかけると、そちらの方には派手な笑顔を返す。手を振ったりする。人目を引く、ということにかけては理香はまるで芸能人のようだ。 「——」 「……大変な人に、嫌われちゃってますね」  絶句している自分に、横から隣の子が遠慮がちに言う。 「まだこれから高等部の三年と、大学が四年あるのに、あの人に嫌われちゃったら……」 「——嫌われたら、何よ?」 「いえ。その、凄くやりにくくないですか。この学校で、あの英さんに『死ねば』なんて言われちゃって」  理香の周囲をいつも取り巻いている数人の少女が、続いて足早に図書館を出ていく。いずれもパッと見て派手な外見だ。理香の率いるグループには、本人をはじめ、雑誌の読者モデルをしている子が複数いるという。その少女たちがくすくすと横目でこちらを見て「死ねば」「死ねば?」と笑いながら目の前を通っていく。  ぱたぱたぱたっ、と足音が小さくなる。 「な——なんなのよ、あれ」  あはは、と自分は呼吸を整えながら、とりあえず笑おうとしてみる。 「あはは、ねぇ、何よあれ」  とりあえず、笑うしかない。  信じられないことを、言われた。  死ねば……!?  本気で言われたんじゃない——そう思いたい。  そうでなければ——  だが、 「あのう戸田さん」  隣の子は、急にガタッと貸出カウンターを立つと、自分に向き直って言う。 「やっぱり一人で、やってもらえませんか。ここ」 「え?」  わけが分からずに、自分は見返す。なんと言われたんだ。一人でやれ……? おとなしい子だと思っていたのに(でもおとなしければ優しい子なのかというと、全然別の問題のようだ)……。 「どういうこと?」 「わたしも、どっちかというと英さんのことが好きだし、憧《あこが》れてるし。あの人のほうが、明るくていい人だと思うし、格好いいし——だからここで一緒に座って話なんかしてて、わたしが戸田さんの友達なんだとか思われたら、迷惑なんです」 「え……」 「一人で、やってください。すいません」  ぺこりとお辞儀すると、おとなしい子は行ってしまう。 「ちょ、ちょっと待ってよっ」  自分は慌てて呼び止める。 「あなた、職場|放棄《ほうき》する気!?」 「だって。もう嫌なんです」おとなしい子は振り向いて言う。「戸田さんの隣に座らされて、これまでさんざん世の中を斜《しゃ》に構えて見たような蘊蓄話《うんちくばなし》ばっかり聞かされてきたけど、もうごめんだわ」 「え……」 「英さんも言ってたけと。あなたのことを好きな人って、いないんじゃないかしら? あなたのように『人間嫌い』って顔に書いてあるような人の横にいて楽しい人なんて、いないと思うわ」 「……」 「『自分以外の人間は全員自分より馬鹿』って、そんなふうに考えているような人と、友達になりたい人間はいないと思うわ。悪いけど、わたしもそうだわ」  あんなおとなしい子が、自分の話を感心して聞いている風情《ふぜい》だったあの子が、心の中ではそんなことをずっと考えていたのか——  本当は、迷惑していたというのか。 「……」  自分は、愕然《がくぜん》とするよりない。  いったいどうなっているんだ。  本を抱えてカウンターへ近づいてきた一人の生徒が「あの。貸し出しは——」と声をかけてきた。  おとなしい子は「あっちに頼んでください。あそこに一人いるでしょ」とだけ告げ、行ってしまう。  あそこに一人、いるでしょ……!? 「戸田さん」  おとなしい子は遠くから言った。 「余計なことかもしれないけど、学校のサイトとか、ときどき見た方がいいですよ」 「——?」  訊《き》き返す前に、本当にその子は行ってしまう。  サイトぉ……?  そんなもの、見てない。  学校の掲示板なんて、トイレの壁に書いてある落書《らくが》きとなんの違いがあるの。くだらなくって—— (……)  でも自分は、思わず席を立つと「あの、貸し出し——」と言いかける下級生を押しのけ、太い柱の陰へ走る。  物陰へ駆け込んで携帯を取り出し、開く。  いつもは『トイレの落書き』と呼んで、開きもしない学校の生徒の掲示板。膨大《ぼうだい》な書き込みが上下に並んでいるので、わけが分からない。試しに『検索』のところに自分の名前を書き込み、ボタンをクリックしてみる。  すると、 (……!?) 『戸田ってさ、ださいよね』 『ださいよねー』  なんだ、これは……。 『あいつの話聞いた? 馬鹿みてぇ』 『自分はみんなと違う、とか思ってるよあいつ』 『あいつきっと、自分以外の人間は全員自分より馬鹿とか思ってるよ』 『あいつがバカじゃない』 『ださい』 『何あの格好』 『生きてる値打ちないよね』 『死ねばw』 『戸田が死んだほうがいいと思う人の数——』 「……」  静かにざわめく図書館の空間の隅で、自分はハッと顔を上げ、周囲を見回す。  胸が上下し、頬が熱くなっているのを誰かに見られてはいないか——そう怖くなって、見回す。  誰もあなたを、好きじやない  死ねば?  自分は、手を握り締める。  死ねば?  気がつくと爪《つめ》が痛くなるくらい、握っている。 「——く、くそっ……」  駆けだす。  図書館を飛び出す。  校舎の階段を、駆け上がる。 『死ねばw』 (……そんなに言うなら)  そんなに言うなら——  いっそのこと、死んでやってもいい……そんな思いが、ふいに頭に湧《わ》いた。  そうさ。  死んでやる。 「はぁっ、はぁっ」  階段をのぼる。 (死んでやる)  人のことを掲示板に『死ねばw』なんて——そんなことしたらどうなるか。  思い知らせてやる。  本当に死んでやる。  死んでやる。  死んでやる、死んでやるっ……! 「そう、あんたたちの望みどおりに死んでやるわよっ」  自分は、寒い校舎の階段を駆け上がる。のぼっていく。死ぬくらい何よ。反響する足音。屋上へ飛び出す。雨。降りかかる雨。まるで押し戻そうとするような——。  そこでハッとする。  そうだっ——まだ遺書を書いていなかった。遺書だ。遺書を書こう。遺書に、誰のせいで自分が死に至ったのか、はっきり記《しる》しておかなければ……!  身を翻し、階段を駆け下りる。二年F租の教室。もう生徒は誰もいない。自分の机の中を探る。適当なレターパッドがない……。  舌打ちする。わたしが書く遺書であるからには、レポート用紙や、ルーズリーフなんて駄目だ。また階段を駆け下りて、一階の購買部へ飛び込む。でもセンスを感じさせる便箋は置かれていない。畜生、こうなったら外の文房具屋しかない。昇降口から飛び出す。雨が降る中、絵タイルの商店街を自分は駆ける。駆ける。古くからある二階建ての書店兼文具店が見えてくる。でもその店先に、あの英理香のグループがたむろしていた。瞬間、店に近づくことを脚が『拒否』した。  反射的に、裏通りへ駆け込んだ。迷路のような狭い裏道を、途中、何度も人にぶつかりかけながら息を切らして走った。自分は何をしているんだ……!? そう思っても脚は止まらない。気がつくと二子玉川のデパートの専門店街にいた。いつの間に電車に乗ったのかさえ覚えていない。とにかく便箋を買って戻らなくては……。 「うぅ——」  夏子は、唇を開いてうめき声を出した。  頭の中を、ぐるぐるぐるぐる、つい先ほどからの出来事が駆けめぐる。視界に押し寄せてくるような景色、景色。茶色く汚れた靴下。渋谷駅の地下街。駅前広場の募金箱の少女たち。立木容子の顔。 「——う」  学校へ戻る。一人の教室。遺書を書き上げる。  パソコンの実習室へ。スキャナーで読み取る。でもテレビ局へ送れない。英理香と、そのほか掲示板に書き込んだ連中のせいで死ぬのだと、全世界に公表できない。どうしよう——また舌打ち。窓の外から女子生徒たちの悲鳴。乾いた破裂音。でもまだ関心は外へ向かない。屋上へまたのぼる。雨上がりのコンクリート。壊れかけた修理中の手すりから、自分はおそるおそる、真下を見る—— 「う」  なんだ……あれは。  その時やっと、関心が外の世界へ向く。雨上がりの中庭を、逃げ散っていく女子生徒たち。追いかけて現れる黒い影。なんだあれは——棒のようなものを手にしている。あれはなんだ。銃……!? 驚いて力をかけると金属音を上げる手すり。視界の真下で男がこちらを振り仰ぐ。やだ、こっちを見た!? のけぞって逃げようとするが、悲鳴を上げて倒壊しかける手すり。駄目だ逃げられない、下の男と視線が合う。うわ気持ち悪い、こちらに銃口が向く。助けて冗談じゃない! だが白煙《はくえん》を噴《ふ》く銃口。  衝撃。弾けるワイヤー、放り出される自分の身体。ふわっ、と身体が浮く。掴まろうとするけれど指が宙を掻《か》く。駄目だ、掴まれない——!  うわっ、おちる。おちるおちるおちるおちるおちる——! 視界の真ん中、猛烈な勢いて拡大するように迫る銃を持った男。嫌だ、あんなところにぶつかりたくない。ぶつかりたくない—— 「う———ぶ、ぶつかりたくないようっ……!」  自分の口から絞り出された叫びに、 「……!?」  ハッ。  夏子は、意識を取り戻して目をしばたたいた。  しんとした、冷たい空気。  な、なんだ……。  数回、息をした。自分が仰向けに寝ていることに気づくまで、三秒かかった。すっかり暗くなった空と、どこかのネオンの赤だろうか、ぼうっとした光が夜の雲を染めている。顔の上に覆いかぶさった木の葉から、滴《しずく》がこぼれて頬に当たる。 「つ」  冷たい……。  生きて、いるのか……?  また夏子は、目をしばたたく。  わたしは、屋上の手すりから放り出されて——銃を乱射する犯人の真上へ真っ逆さまに落下して—— (——落下して……どうなったんだ)  息をつく。  息が、できる。  でも普通は、あれじゃ死ぬよな……。 (……じゃ、ここはどこだ——?)  夏子は目を動かす。目の上は、夜空と、低い木々の枝だ。どうやら校庭の生《い》け垣《がき》の低い木々の間に、仰向《あおむ》けに倒れているようだ。車寄せに向かって真っ逆さまに落下したのに——どうしてこんな土の上に、わたしは仰向けに寝ているのだろう?  やはり、死んだのではないだろうか。身体も、どこも痛くない。  そうだ、痛くない。どこも痛くない。  ということは——嫌だわたし、『幽体離脱《ゆうたいりだつ》』しているのかしら? だとしたらわたしの身体は、どこだろう。  身を起こしてみる。身体は動いた。ベージュのセーラーに包まれた胸が、目の下にある。  これは、わたしの身体だ  幽体離脱などしていない。死んでなどいない。  でも、どうしてほとんど無傷なんだろう。全身のどこにも、苦痛がないんだろう——?  眉をひそめた、その時。 「——ナツコ」  声がした。  どこだ。  誰だろう。  頭の後ろからか。 (……!?)  だが振り向いた夏子は、上半身を起こしかけた姿勢のまま、固まってしまう。  な、なんだ……。  急いで目をこすり、そこで自分を呼んだものを、目で捉え直そうとした。 [#改ページ]         2 「ナツコ」  |それは《ヽヽヽ》、夏子をそう呼んできた。 「——」  夏子は、初めは口が動かなかった。  こいつは——なんだ  自分を呼んだもの。  目の前の地面に、しなやかなレッグラインの腰をついて、存在しているもの——  銀色にぼうっ、と光っているもの。  |そいつ《ヽヽヽ》を、その姿をどう解釈していいのか、分からなかった。 (なんだ……猫——人間?)  唇が震えて、声は出なかった。 「ナツコ」  それは繰り返し、そう呼んできた。形のよい唇が動いて、声を——少女のものらしい声を出した。 (……!?)  そう。それは少女に見えた。  ただ変わっているのは——その顔と全身が、淡いピンクがかった銀色の産毛《うぶげ》で覆われていること。そしてその流麗《りゅうれい》なボディーラインにフィットするボディースーツのような……自動車レースのサーキットにいるキャンペーンガールが着るような、レオタード風のコスチュームに身を包んでいること。  それさえなければ(それさえといってもかなり違うが)、夏子と背丈のあまり変わらない、小作りに整った顔を持つ少女の姿を、|それ《ヽヽ》はしていた。  いや、もう一つ。大きく違うのは……銀色の流れるような髪の中から、猫のような尖った耳が二つ、天に向かって可愛く飛び出している。  それを見て、夏子はとっさに『猫人間?』と思ったのだ。決して、青香の漫研の子がコスプレをしているとは思わなかった。あそこの連中の中に、こんな不思議な雰囲気の、きれいな子はいない……。 「……あんた」  ようやく、かすれた声が出た。 「あんた誰?」  意識を回復した夏子の前に、現れたもの。  それは銀色の産毛とコスチュームに全身を包まれた、猫のような顔と姿の少女だった。  目をこすっても、その姿は消えない。 「ナツコ。あなたはナツコというのでしょう?」  猫のような少女は、微笑した。  小首を傾げるような仕草とともに、尖った耳が動く——ギミックにしちゃよくできてる……。 「……」 [#挿絵(img/01_047.jpg)] 「すばらしいわ、ナツコ」  猫のような少女は、しなやかな両手を胸の前で合わせるようにすると、感激したかのようにうなずいた。 「あなたは、すばらしいわ。殺戮《さつりく》を止めるために、自分の身を犠牲《ぎせい》にして、屋上から飛び降りて体当たりしていくなんて——」 「……?」 「すばらしいわ」  猫少女は銀色の長い睫毛《まつげ》を伏せ、まるで感動を味わうかのように、頭を振った。  なんだ、こいつ……!? 「な……」なんなのよ、あんた——そう言おうとしたが、猫少女の切れ長の目のまぶたの動きや、顔の造りの動きや、しなやかな腕の仕草があまりに見事だったので、夏子は一瞬見入ってしまった。コスチュームがエロいところが気に食わないけれど、これは自分が夢の中で観ている映像なのか——? では、まだわたしは、どこかで寝ているというわけか。パソコン実習教室? 遺書を書いたあと屋上へ出たのは、夢だったか。  すると、 「夢ではありません。ナツコ」  猫少女は言った。 「……え」  夏子は目を見開き、土の上に身を起こしかけた姿勢のまま、思わず肘《ひじ》で後ずさった。  こいつ、今なんて……!? 「あ。ごめんなさい」  猫少女のきれいな顔が動き、すまなさそうな表情(そう見える)を作った。 「驚かせて、ごめんなさい。言葉が分かるのは、あなたの意識の中にある言語で、あなたに話しかけているからです。ナツコ、という呼び名もあなたの意識野から拾いました」 「え」 「間違って、なかったかしら」  また小首を傾げるようにして、猫少女はこちらを覗き込む。  うわ、顔が近づく。息がかかる——夏子はさらにのけぞって後ずさる。  な、なんなんだ、こいつ——!? 「……」  でもこいつ、性格は素直そうだな……。のけぞりながら夏子はちらと思う。いや、態度と本当の性根が、合っているとは限らないわ。だいたいこいつ、わたしの頭の中から名前を拾い出した……? 「ごめんなさい。わたし、ウィノア」 「え?」  猫少女は、銀色の胸に手を当てると、言った。 「わたしはウィノア。ウィノア・イプロップ。宇宙の平和を守るボランティア活動で、この惑星へやって釆ました。成層圏《せいそうけん》から地表の様子を眺めていたら、危険な〈凶気《きょうき》〉を感じたのでここへ駆けつけたのです。でも、どうしていいか分からなくて」 「……」 「なにしろ、今日着いたばかりで」  猫少女は、困ったように肩をすくめる。 「……」  猫人間が、自己紹介……。  嘘《うそ》だろ。 「どうしていいか、困っていたのです。その時にあなたを見たのです。ナツコ、あなたの行動はすばらしいわ」  こいつ、いったい何をしゃべってるんだ  でも、夏子がそこから逃げ出さなかったのは。  その猫少女がなぜだか知らないけれど、自分に敬意を払っている——そのように感じたからだ。 「殺戮を止めるために、自分の身体を犠牲にして、飛び降りて犯人に体当たりするなんて! あぁ、あなたはなんてすばらしい、勇気ある自己犠牲精神の持ち主なのでしょう」 「……は?」  夏子は目をしばたたき、固まってしまう。  その目の前で、猫少女はまるで感動したかのように目をうるませ、胸の前で手を組み合わせると、言った。 「ナツコ。お願いがあります」 「え」 「あなたのようにすばらしい人と出会えたのは、きっと宇宙の配剤《はいざい》です。わたしのパートナーになってください」 「……へ?」 「わたしたちボランティアのメンバーは、この姿をじかにさらして、直接手を下す形で現地人の紛争《ふんそう》に介入できません。現地人の紛争は、必ず現地人たちの手で解決する形にせよと、団体の倫理規定で厳格に決められているのです。ですから——」 「ちょ、ちょっと待って」  夏子は、猫少女を手で制すると、自分の頬を自分の手のひらて、ぺちぺちとはたき始めた。  ぺちぺちぺち 「?」猫少女——ウィノアが首を傾げる。「ナツコ。何をしているのですか?」 「早く、意識を回復しないと」 「?」 「早く現実に戻らないと」  ペちぺちと自分の頬をはたく夏子を、宇宙からやって来たらしい猫少女は不思議そうに見た。 「ナツコ」 「うるさいわね」  女子高生は、顔をしかめて頬をはたき続ける。  きっと、屋上から飛び降りて乱射犯人に激突して、わたしは今病院のベッドで昏睡《こんすい》状態になっているのに違いない。だからこんな夢を見るんだ。早く意識を、回復しなくては……!  ぺちぺち、ぺち  醒《さ》めろ。醒めろ……!  しかし、痛い。 「あなたは意識を失っていません、ナツコ。さっき犯人に激突する寸前、わたしが抱きとめました」 「……えっ!?」  驚いて手を止める夏子に、ウィノア——猫少女は説明した。 「みずから直接、介入するのは駄目なのですが。でも〈救助〉はしてもよいのです。犯人にぶつかる寸前のあなたを、わたしが横から超音速で割り込んで抱きとめ、ここへ運びました」 「——」 「副次的《ふくじてき》に、手持ち火器を所持した犯人は衝撃波で吹き飛びましたが——これは〈やむを得ない事象〉として、許容される範囲でしょう」 「……」 「現場を、ご覧になりますか」 「え?」  いったい何が起きたのか分からない——という顔をしている夏子に、やおら猫少女は覆い被さった。次の瞬間、その両腕に抱き上げられていた。 「わわっ、な、何するのよっ?」 「暴れないでナツコ」  ふわっ  空中に浮揚する感覚。周囲の木々が、夏子の視野の下へ吹っ飛ぶように消える。  フュィイッ  風が激しく顔に当たった。 「わ、わゎっ!?」  気がつくと、夕暮れの東京の夜景が、まき散らした宝石のように眼下一面に輝いていた。  な、なんだこれは……!?  空を飛んでいる——!? 「あ、ごめんなさい。上昇しすぎちゃいました」  顔の横で声がすると、今度はふわわっ、と沈み込む感覚。  ブォオオッ  急降下。  おちる——!? 「わっ、わっ、わーっ!」 「暴れないでナツコ。わたしから離れると自由落下してしまいますよ」 「そんなこと言ったって、これひょっとして自由落下より速いじゃ——うわぁっ」  ぴた  宙に止まった。 (……!?)  ふいに止まった。宙に浮いて、止まった……!? 風圧に激しくなびいていたスカートとスカーフが、あとからゆっくり舞い降りて、夏子の胸と脚にまとわりついた。 「——はぁ、はぁ……」 「驚かせて、ごめんなさい。ほら、あそこです」  猫少女は足下を指そうとするが、 「ちょっと」  夏子は居心地悪そうに、身じろぎする。 「この姿勢、なんとかしてよ。女の子同士でお姫様抱っこだなんて、何かの小説じゃあるまいし——」 「では、わたしと手を繋《つな》いで」 「——手を?」 「はい。わたしと同じ重力場に入ってさえいれば、浮いていられます」  差し出された猫少女の手を、夏子はおそるおそる、握った。  産毛が長いけれど、細くてきれいな指だ。 「握っていて。こちらの腕を離します」 「……!」  猫少女の腕から解放され、空気の中へ放り出される感じ。しかし制服姿の身体はふわり、と見えない力に支えられ、そのまま夜の空中に浮いた。  浮いている。なんの音もしない。夜の柔らかい風が、スカーフとスカートをなぶっていくだけだ。 「ほら。浮いてるでしょう」 「……」  夏子は猫少女の手を取って、並んで空中に浮いていた。脚の下へ目を向けると、百メートルくらい下にたぶん校舎らしい建物(真上から自分の学校の校舎を見たことがなかった)が、無人の屋上を見せている。端の手すりが外側へ倒壊して、建物の壁面に垂れ下がっているから、あれが自分のおちた屋上なのだろう—— (……)  ふと目を上げると、視界の右手の方には、東京タワーの紅《あか》くライトアップされたシルエット。確かにここは東京の上空だ——そのタワーの第一展望台と、自分たちは同じくらいの高さだ。 「もっと近づいてみましょう」  猫少女が言って、頭を下にぐんっ、と潜るような動作をすると、 「きゃっ!?」  ぶわっ、と空気が顔に押し寄せ、大地が近づく。瞬間的に高さが半分になる。  思わず夏子は、猫少女の手を握り締めていた。 「はぁ、はぁ」 「ほら見て、ナツコ」  ウィノアがもう一方の手で指すと、校舎の向こう側に、明滅する赤色灯の光があふれている。 「……」  風に乗って、走りだす緊急車両のサイレンと、人々のざわめきが伝わってくる。  さっき夜空を赤い光が染めているように感じたのは、ひょっとして—— 「ついさっき、あなたをあそこで抱きとめて、建物の反対側の茂みに降ろしたのです」  猫少女は言う。  そうか——わたしが寝かされていたのは、反対側の裏庭の……。  そう理解しかけた時。 「……うっ」 「どうしました? ナツコ」 「気持ち悪い。酔《よ》った」 「え?」 「わたし、ジェットコースターとか駄目なの」  夏子は自分の口に手を当てて、頭を振った。 「もう降ろして」 [#改ページ]         3 「うぇっ、うぇぇっ——」 「大丈夫ですか? ナツコ」  大丈夫じゃ、ないよ……!  いったいどうなっているんだ……!?  日の暮れた学校のグラウンドの隅の水飲み場で、猫耳宇宙人(宇宙人なのだろう、たぶん)に背中をさすられながら、吐きそうになっている自分……?  いったい、なんなんだ。この状況——さっきからわけの分からないことばかり。学内で突然、不審者が銃を乱射して、こっちを狙われて、屋上から転げおちて——いったん気を失ったと思ったら、目が醒めて目の前にいたのが……。 「うぅっ」  勘弁《かんべん》して。空なんか飛ばされて——ビッグサンダー・マウンテンに無理やり乗せられた時より気持ち悪い……!  でも、お昼を食べてからだいぶ経つので、身体を祈って顔をしかめても喉からは何も出てこない。 「大丈夫ですか?」 「ふ、ふぅ……」  ようやく吐き気がおさまって、夏子は制服のスカートのまま水飲み場にぺたんと座り込むと、コンクリートの洗面台にもたれて夜空を見上げた。 (……)  校舎の向こう側から、まだ緊急車両の音や、警官たちの呼び交わすような声が、冷たい空気に乗って伝わってくるが——ここは人けもない。静かだ。  見上げると、空高いところに、まるで天井のような薄い雲の層があって、東京の夜の灯《あかり》でぼんやりと赤く染まっている。  星はよく見えない。  さっき上空から見下ろした都会の夜景のほうが、まるで星の海のようだった——夏子はそう思い出し、そばに立って自分を不安げに見おろす猫少女に、目を移した。 「……あんた——なんていったっけ?」  宇宙人……?  こいつ、さっき名乗ったよな。 「ウィノア」猫少女は微笑《びしょう》した。「ウィノア・イプロノプです」  あぁ、やっぱり、この宇宙人は現実か—— 「あの。わたしを、助けてくれたわけ?」  夏子が訊くと、 「はい」  猫少女はうなずく。 「あなたのようなすばらしい勇気の持ち主を、死なせるわけにいきません。ナツコ」 「——」  まだこいつ、何か勘違いしてる——そう思いながら、夏子はため息をつく。  自分の手を見る。さっき屋上から放り出されて、犯人目がけておちていったのに——確かにまだ生きている。この身体は、無傷だ。  屋上から落下した時。この猫のような宇宙人の少女が、物凄い速さで空中を駆けつけて、自分を宙で抱きとめてくれたという。どうやら、それは本当らしい……。あの白い閃光《せんこう》のようなものが、この子の飛来だったのか。  衝撃波で、犯人は吹き飛んだという。ならば生徒たちに向けた銃の乱射は、あれで止まったのか。  パトカーのサイレンがたくさん聞こえるのは、向こうに警察が押し寄せている、ということか。あの犯人——気味の悪い目をしたずんぐりした三十くらいの男は、捕まったのだろうか。 「助けてくれたのは、ありがたいけど……」  夏子は、もう命の危険はないのだ、と自分に言い聞かせながら、呼吸を整えた。 「ウィノアって、いうの?」 「はい」 「あんたって、いったい誰で、何をしにきたの」 「わたしは」  猫少女は、夏子の横に膝をつくと、銀の産毛に覆われた手をコスチュームの胸に当てた。 「宇宙の——」 「宇宙の平和を守るボランティア?」  さっきこいつは、確かそう言った。  先回りして言われたので、猫少女は切れ長の日を驚いたようにしばたたく。  夏子は、他人との会話の中て、相手が言おうとすることを先回りして自分で言ってしまうことがよくある。話し相手がおっとりした子だと、その回数は多くなる。嫌がられるのだか、まだるっこしくて、ついやってしまう。  でも猫少女は、嫌な顔は少しも見せず「はい」とうなずいた。 「はい。そのとおりですナツコ」 「でもあんたたちの世界にさ、ボランティアなんて言葉、あるの?」 「いえ、失礼ですがナツコ。あなたの脳を覗いて、言語|中枢《ちゅうすう》にある語彙《ごい》の中で、一番意味の近い言葉を選んだのです。あ、心配はいりません。恥ずかしい〈秘密の領域〉には、立ち入っていませんから」  夏子が自分の頭を隠すように両手で覆ったので、ウィノアは手を上げてなだめるように言った。 「あ、当たり前よ」  脳を覗いた……?  やっぱりこいつ、化け物か——!?  でも銀のコスチュームの胸に手を当てて「分かってください」と口にする猫少女から、悪意のようなものは伝わってこない。  むしろ、立木容子と同じ『無防備な純真さ』かな……。宇宙人なのに、雰囲気が似ているな—— 「分かってください、ナツコ。わたしたちは、団体の厳しい倫理規定に従って活動します。人に迷惑はかけません」 「それで——」夏子は半信半疑で猫少女を見返す。 「あんたは、わざわざ宇宙のどこかから、この地球までボランティア活動をしに?」 「はい」 「——うぇ」 「なんですか」  夏子がまた「うぇ」と顔をしかめたので、猫少女は心配そうな表情になると、覗き込んできた。 「また気分が悪いですか、ナツコ」 「違うの」 「?」 「何か、うさん臭い」 「うさん臭い? その語彙については、理解できますが——でも他の人たちのために、無償《むしょう》で尽くすのは気持ちのよいことですよ」 「でもさ。あんたは、自分たちがこの世で一番正しいって、信じてるでしょ?」 「は?」 「——まあ、いいわ」  夏子は息をつく。 「助けてくれたのには、お礼を言う。ありがと」 「ナツコ」  すると猫少女は、また両手を胸の前で組んだ。 「あなたに、お願いがあるのです」 「何」 「さっきも言いましたが、パートナーになってほしい。わたしはこの姿のまま、この惑星の上で活動はできません」 「パートナー……?」 「その言葉で、合っているでしょうか。別の言い回しで、相棒《あいぼう》、とかでもいいらしいですけど」 (——?)  言葉が通じる、というだけでも、眩暈《めまい》がするほど不思議なのに。  今度はこいつ、何を言い出すのだ——? 「相棒になれって——どういうこと」  今度は夏子が目をしばたたいた。  初対面で、いきなり人にものを頼む——? 純真そうに見せて、厚かましくないかこいつ。まるで、人の家のインターホンを鳴らして「あなたのために寄付しなさい」と『命令』する宗教団体や、人に署名させたあと「カンパしろ」と要求してくる駅前の平和運動グループの連中みたいな……。 「何かに入会しろ、とか?」  まさか——宇宙人だろ。宇宙人が勧誘するか? 普通。 「いえ。わたしと、〈融合〉してほしいのです」  猫少女は胸に手を当てて言う。 「ゆ、〈融合〉——?」  いったい、どういうことだ。 「ちょっと、よく分からないんだけど」  しかし猫少女は「はい」と熱心そうにうなずく(まるで本当に人間の『感情』があるみたいだ)。 「わたしと身体を〈融合〉して、一緒になってほしい、ということです」 「身体が一緒になる? あんたと——!?」  夏子は、自分の制服の胸と、猫少女のコスチュームの胸を交互に指さした。  でかい。  でかいのは、いいが——  すると、 「はい。そのとおりです」  猫少女——ウィノアはうなずく。 「さっきも言ったとおり、わたしたちは、現地人同士の紛争に直接手を下して介入することは倫理規定で禁じられています。活動するには、誰か現地の人の手を借りなけれはいけません。あなたなら、わたしのパートナーとして適任です」 「——」  適任……?  でかいのはいいが、何を言い出す? こいつ。 「ぜひわたしと一緒に、この惑星の平和を守りましょう」 「い、嫌よ」  夏子は、反射的に頭を振った。  なんだか知らないけど、身体が一緒になる……!? 「そんなの嫌」 「ナツコ」  でも猫少女は、まるで宗教系サークルの生徒が熱心に入会を勧めてくる時のように、切れ長の両目を潤ませてぐいと迫ってきた。 「そんなことを言わず、わたしと一緒に、平和のためにたたかいましょう」 「嫌」 「ナツコ」 「だ、だいたい、あんたの言う〈平和〉って何よ」 「は?」 「〈平和〉って、なんなのよ。答えてみなさいよ」  夏子は、いつの間にか宇宙人に対して口で反論していた。  面倒くさいサークルの子が勧誘してきた時、夏子はいつも口で言い負かして追っ払っていた。『忙しいから』とか言わず、相手の所属するサークルの主義主張の変だと思うところを、つっついて論破してしまうのだ。  これまで、その言い合いで負けたことはないが——でも遠慮《えんりょ》のない言い方に、ムッとした子もいただろう。そのたびに自分でも気づかぬうち、掲示板で自分を悪く言う人間の数を増やしていたのかもしれない。でも反論したくなるのは性分で、やめられるものではない(相手が宇宙人でもだ)。 「いい? あんたの言う〈平和〉っていう状態が、仮によ、世界が一つの権力によって完全に平定され支配されている『平衡《へいこう》状態』のことをいうならばよ。あんたの言う『平和を守る』ってことは、この世界を支配する権力に隷従《れいじゅう》し、その支配に味方してやるっていうことに、ほかならないわ」 「……は?」 「どこだか知らないけど、遠い宇宙からわさわざこの地球までやって来て」  夏子は猫少女を指さして、まくしたてた。 「たまたまこの世界を今支配している権力者たちの安定のために働いてやるなんて、あんたおめでたい馬鹿としか、言いようがないんじゃない? つてことよ。分かる?」 「……はぁ」  猫耳の少女は、全然分からない、というふうに小首を傾げたが、 「あ」  ふいに、何かに気づいたように二つの尖った耳をぴくっ、と一方向へ揃《そろ》って向けた。  なんだ、こいつ。  この耳、やっぱり本物か。 「ナツコ」 「何」 「難しいことは分かりませんが、わたしと一緒になると、わたしの〈能力〉のほとんどをあなたが使えますよ」 「……〈能力〉……?」 「たとえば、ほら」  夏子が「えっ」と身構える暇もなく、猫耳少女は夏子の右腕を両手で掴んだ。  ぎゅっ  途端に、  きゃーっ (……!?)  な、なんだ。  夏子は目を見開くと「離してっ」と猫少女の手を振り払い、両耳を押さえた。  なんだ、今、何が聞こえた……!?  なんだろう。 「聞こえたのですね」 「い、いったい何よ——うゎ」  猫少女が、もう一度手を伸ばしてきたので夏子は思わず後ずさった。 「怖がらないで。ナツコ」 「さわんないでよ」 「聞こえたのでしょう、悲鳴が」 「え」 「助けを求める声」  猫少女——ウィノアは、夏子を見つめてくる。 「それは、あなたの〈正義の心〉が開いているのです」 「……!?」  こいつ。何を言う。 「ナツコ。あなたには〈正義の心〉があるのです。わたしのパートナーとなれるしるしです」 「勝手に——」  夏子は肩で息をする。  正義の……?  こいつ何をまた、絵空事のような——  でも、 (でも今の〈声〉……)  唇を噛む。  どこかで、聞いた声じゃないか……? 「気になるのですか」 「——」 「もう一度、聞きますか?」 「——い、嫌よ」 「でも、まだ叫んでいますよ。悲鳴の主」 「えっ」  ——『募金して』 「——」  絶句する夏子に、ウィノアは手を差し伸べる。  どうしよう。  今度はおそるおそる、手を握らせた。  目をつぶる。  途端《とたん》に、  きゃぁああっ (……)  また聞こえた……。  いやです、やめてっ  はっ。  夏子は目を開ける。  この声——  ——『募金して。十円でもいいわ』  思わず夏子は、声の聞こえた方向を振り向く。  どこだ。  どこで叫んだ……!?  しかし。日のとっぷり暮れた裏庭は静まり返って、遠くからサイレンが聞こえてくるだけだ。夏子は見回すが、悲鳴の主はどこにも見えない。 (——)  銃で、襲われたのか……? でも乱射犯人は、ウィノアの衝撃波で吹き飛ばされ、もう捕まっているはずではないのか。 「悲鳴は、どこか遠くです」  ウィノアは言った。 「ここではありません。わたしの〈聴覚〉が、聞きつけたのです。ナツコ、ひょっとして、悲鳴の主はあなたの知っている人ですか」 「——」  ごくり、と唾《つば》を呑《の》み込んでうなずくと、ウィノアもうなずいた。 「あなたの知っている人が、今悲鳴を上げて、助けを求めているようですね」 「——」  そうなのかどうなのかは、分からないが——でもこの声は、立木容子だ。さっきまで渋谷の駅前て、募金活動をしていた—— 「はっきりと分からないけど。あたしの知ってる子、みたい」 「では、助けにいきましょう」 [#改ページ]         4 「助けにいきましょう」 「えっ」  助けにいく——って……!?  思わず夏子は、猫少女を見返す。 「助けに——って、どこへ?」 「その悲鳴の主のところへ、です」  尖った耳を二つとも夏子の方へ向け、ウィノアは言う。 「行き着けますよ。声をたどって飛ぶのです」 「ちょ——」  ちょっと待ってくれ。  夏子は、ごくりと唾を呑み込んだ。  いったい、何が起きている——  やっぱり、夢じゃないのか。  こんな状況——  悪い夢か?  自殺しようなんて、考えたのがいけなかったのだろうか……。  だって——  何かが、自分を責めている気がする。  そんな気が凄くする。自殺なんか、考えるからだ——  夏子は唇を噛む。 (——だって……)  ふいに脳裏《のうり》に浮かんだ面影《おもかげ》に、夏子は目を閉じて頭を振る。  学校では、思い出さないようにしてたのに…… (だって、死にたくもなるよ……。お父さん、そうだよ。最近嫌なことばっかり——)  サイトを見て、勢いで自殺しようとして——それに重なるみたいに乱射事件が起きて……。屋上から落下して、気を失って——気がつけば目の前に猫少女。夜空を飛ばされて、相棒になれとか言われて、腕を掴まれて悲鳴を聞かされて……。  いや。  きっと、落下して意識を失ったところからは、夢なんだ。ほっぺたが痛くても、これは夢なんだ。  夢に違いない。宇宙から来た『空飛ぶ猫少女』なんて、どう考えたって夢の産物じゃないか。  きっとわたしは、今病院の集中治療室で生死の境をさまよっているのだ。 (……!)  思わず、夏子は自分のセーラーの胸に右手を当てていた。心臓の辺りを、手で探った。ちゃんと動いているか……? ブラと胸の間に隙間《すきま》があって、よく分からない。  お父さんのところへ、行くのかな……。  ふと思った。  でも、なら迎えにきてくれないのは、なぜ。  向こうの——死んだあとの世界へ、これから行くのなら。わたしが行くのなら、迎えにきてよ。  いや、ひょっとして—— (——!?)  夏子は、目の前にたたずむ猫少女へ、目を上げた。この世のものと思えない、渋い銀の産毛《うぶげ》に包まれた姿態を見やった。 「——ひょっとして、あんたって、死神《しにがみ》……?」 「は?」 「わたしを、迎えにきたっていうの」 「は?」 「飛んでいこうって、あっちの世界へ——?」 「なんのことですか、ナツコ」  猫少女は、耳を片方傾け、不思議そうな(人間でいえば)顔をする。  だが、 「どうして、お父さんじゃなくて、あんたが来るの!?」  夏子は猫少女を詰問《きつもん》する。 「迎えにきたなら迎えにきたって、そう言いなさいよ」 「何を言っているのか、分かりません。ナツコ」 「あたしの心、読めるんでしょ。読みなさいよ」 「あなたが嫌がることを、勝手にはしません」  よく言うよ——  夏子は唇を噛む。  生死の境に見ている夢なら、もっと昔の楽しかった思い出とか、せめてそういうの見せてよ。こんなコスプレの宇宙人じゃなくて……! 「ナツコ」  猫少女は、少し哀しげ(人間でいうと)な表情で言った。 「信じてください。あなたが今見ているのは、死ぬ前の夢ではないし——わたしは、あなたが好きで接触したのです。あなたの嫌がることはしません」 「そ——」  そんなこと言ったって、今わたしが考えたことを、読んでるっぽいじゃないか……?  のけぞる夏子に、 「確信が持てないのは、分かります」  猫少女は、すらりとした脚で立ち上がると、制服のスカートで水飲み場に座ったままの夏子に、手をさしのべた。 「行きましょう」 「——えっ」  行きましょう……!? 「行きましょう——って」  見返すと、猫少女は夜空を背景に微笑(人間でいえば)して、うなずいた。 「確かめにいきましょう、ナツコ。この惑星の音の速さで飛べば、すぐですよ」 (——)  夏子は日を見開いた。  飛ぶ……? またか——!?  セーラーの袖の中に、ぞわっと鳥肌が立った。  不快感が甦った。  猫少女のさしのべる手が、二の腕に触れそうになり、思わず夏子は座ったまま後ずさった。 「やめて」 「ナツコ」 「とりあえずやめて」  夏子は小さく叫んだ。 「触らないでっ」  気がつくと夏子は、立ち上がって走りだしていた。背中から猫少女が「ナツコ」と呼ぶのを、振り払うように走った。 「あ、あたしの嫌がることはしないって、今言ったでしょっ」 「——でも、ナツコ」  ウィノアの声を振り払って、夏子は走った。 「あたし帰る。もう帰るっ」  夏子は逃げ出した。  夜の中へ、ただ駆けた。  この一時間くらいに起きた出来事を全部、背中へ置き去って——なかったことにしたい、と思った。いつの間にか商店街へ走り出ていた。  頬に冷たい夜気を浴びながら走った。 「はぁっ、はぁっ」  この荒い呼吸は、走っているせいなのか? それとも集中治療室のベッドで呼吸器を付けられて窒息《ちっそく》寸前だからなのか——? 分からない。 「はぁっ、はぁっ」  視界で、黄色い光が揺れる。すれ違う人影が切り絵のように見える。実体のない幻《まぼろし》のようだ。地下鉄の駅へ続く商店街は、青香の校内で事件が起きたせいか、騒がしさがいつもの夜と違う——いや、今見えているのは頭の中の幻なのだ。ここは生死の境の街なんだ……。  次に気がつくと、夏子は地下鉄の車内にいた。 (——)  ハッ、と気づいて周囲を見寓す。  ごとん、ごとんと揺れる。日吉《ひよし》行きの、いつもの電車だ。帰宅時間帯で混んでいる。ベンチシートの端に自分は座っていた。  あの猫少女の姿は、もう見えない。  あれが——あの猫耳宇宙人が、自分を迎えにきた死神なら……。きっと容態が悪くなれば、また出てくるかもしれない。  もう一度、車内を見る。  自分になんの関心も示さない乗客たち。さっきよりは、少し人間っぽく見える。  でも——  わたしは本当にここにいるの。  本当に、電車に乗っているの——?  揺れている。窓の外に流れる黒い壁が斜めに切れ、夜の景色の中へ電車はせり上がっていく。中目黒《なかめぐろ》か。地上へ出たんだ。自由《じゆう》が丘《おか》で乗り換えなくちゃ……。  え……?  わたしは、どこへ行くの。  家に帰るの?  帰れるの。 (……)  ごとん、ごとん。揺れる車内を見回す。隣のサラリーマンが携帯の画面を横にして、テレビを受信している。音は聞こえないが、夕方のニュースだ。  夏子の横目に、テロップが飛び込む。 『都内名門女子高校で男が猟銃を乱射』  あぁ。ニュースでやってる。さっきの事件……。次の画面で『戸田夏子さん(17歳)が屋上からおちて搬送先の病院で重体』とか出るのかしら……?  でも、赤いパトカーの回転灯で埋められた学校の玄関前の中継映像が切れると、ニュースは次の項目に移ったらしい。携帯の画面は、大きなオフィスビルの映像に替わる。  このビルも、何か見覚えあるなぁ……。 『T自動車 大規模リストラ』 『派遣従業員 大幅労働条件切り下げ』  映像は、赤い鉢巻《はちまき》きでビルを取り囲む人々。  ああ、そうか。  お父さんのいた会社だ。  そうか——ここは夢の中なんだから、わたしの知っている映像しか出てこないんだ。  妙に、納得をした。  電車が、乗換駅に近づいたらしい。速度がおちる。夏子は立ち上がる。手ぶら。そうか——今日は鞄を持っていない。学校の教室に置いてきたままだ。  立ち上がった時、制服のポケットががさっ、といった。なんだろう。手で触って、取り出してみると、三つに折りたたんだ灰色のレターパッド。  あ、と夏子は思った。 (……遺書か)  結局、どこへも出せなかった。  制服のポケットに入ったまま、ということは——わたしが死んだら、誰かがこれに気づいて、開いて見るのかしら。  電車を降り、大井町線《おおいまちせん》の乗り換えホームへと階段を下りながら、夏子は灰色の便箋を広げて見る。 (——なんだ。きれい事ばっかり……。あたしったら一つも本当のこと、書いてない)  死ねば——? なんてあいつらに言われたことも、きっかけだったけど……。あいつらが許せないのは、確かだけれど……。でも死のうと決めるのに至った過程は、そんなに単純じゃ、ない。  この世界がくだらない、どうしようもないって感じたのは、今日に始まったことじゃない  次に気づくと。  夏子は小さな駅の改札口を出た歩道で、立ち止まっていた。  背中の踏切を、大井町線の銀色の電車が走り出ていく。そうか、いつもの駅に着いたんだ (……)  心の中の風景にしては、本物にそっくりだ。この駅前通り——  見回す。  夜気が頬に冷たい。  本当に——ここ、いつもの駅前みたい。自宅のある尾山台《おやまだい》の駅前に、いるみたいだ。  ここが、生死の境の自分の心の中なのか、あるいは現実の世界なのか。分からなくなってきた。  わたしは、帰りたいの……?  改札を出たところで立ち止まったまま、夏子は自分に問うた。  分からない。 (……分からないよ。あの死神みたいな猫娘から、とりあえず逃げ出したかっただけかもしれない)  クラスの立木容子が、どこかで悲鳴を上げていたのに……?  それは……!  夏子は唇を噛み、頭を振る。 (——だってあいつ、あたしの頭の中、読めるんだもの。きっとこの頭の中から、立木の声をサンプリングして、あんなふうに合成して聞かせたのに違いないわ)  じゃ、どうするの。  狭い駅前の商店街を、ライトをつけた事が行き来する。まだ店を開けている商店。一晩中開いているコンビニ。小さなドーナツショップ・チェーンの支店。いつもの帰宅時の景色だ。 「……とりあえず、帰る」  夏子はつぶやいた。  あんまり、帰りたくないけど——  いつもどおりに住宅街の路地を七分歩いて、古びた一戸建て住宅の門扉を開けると。  ふいに玄関から飛び出してきた母に、夏子は抱きとめられた。 「夏子ちゃんっ」 「……!?」  目を白黒する夏子に、母の葉子《ようこ》(44歳)は叫び声を上けた。 「よかった、無事だったのねっ」  背丈の違わない母は、大げさに夏子の制服のあちこちを、確かめるように叩いて「よかった、よかった」と繰り返した。  やだなぁ……。  夏子は、抱きすくめられながら顔をしかめる。  何よ、この大声——  大げさに喜んでみせる母。  嫌だし、変だ……!  やっぱりここは、家の玄関先ではなくて。集中治療室のベッドではないのか——? 「どうしたのよ、|あんた《ヽヽヽ》」  夏子は母の腕を引きはがすようにして、訊く。 「どうしたの——って」  涙目になって、葉子は言う。 「あんな事件が起きるし」 「そう簡単に、鉄砲の弾なんか当たらないよ。嫌よ、もう離して」 「そうじゃないのよ」 「何よ」  興奮している母の葉子に取り合わず、夏子は玄関で靴を脱ぐ。  たたきに知らない、大きな靴がある。  小ぎれいでない靴。  嫌だ……。 「夏子ちゃん、今までどこにいたの!? 学校へ駆けつけても、警察が入れてくれないし、現場検証だからって——生徒は全員大丈夫って、それしか言ってくれないし——」 「学校、来たの? あんた」 「当たり前でしょう」 「全員無事なら、いいじゃない」 「それだけじゃないのよ」  葉子は、ずんずん歩く夏子についてくる。  ああ、嫌だ。  何よ、今日のこの大きな声。変だ。  この頃は、母親はいつも可哀想なくらい消沈していた。馬鹿で可哀想。それがこの人。こんな大きな声が出せるなんて—— 「どうしたのよ、あんた」  夏子は母親を呼ぶ時、「お母さん」でなく「あんた」と呼ぶ。  父親が生きていた頃、夏子は父のことは普通に「お父さん」と呼んでいた。でも考えてみると、母の葉子のことを「お母さん」と呼んだのは——いつが最後だったろう。 「どうしたって、心配してたんでしょう。どうしてすぐ帰ってこなかったの」 「帰ってきたでしょ。こうやって——」  こうやってすぐに——と言いかけて、夏子は口をつぐむ。  リビングのテーブルに、誰かが来ている。  嫌だ。  直接、二階の自分の部屋へ行こうとする夏子の袖《そで》を、母が引っ張った。 「ちょっと、挨拶《あいさつ》していきなさい夏子。成田さんに挨拶しなさい。夕方から支援者の人たちと、ずっとあなたのことを捜し回っていたのよ。学校に行ってもああだし、問い合わせても、誰も出ないし。警察もいつものとおり相手にしてくれないし」 「……」  支援者……。  やっぱり、また来ているんだ。 「あのね」  階段ののぼり口で、夏子は声を低めて言う。 「もうやめようよ。裁判なんて、疲れるだけだよ。あんたは、利用されてるのが分からないんだよ」 「またそんなこと言って」 「あたしが、あの人たちの前に出ていったら、また大喧嘩《おおげんか》になるよ。嫌よ。疲れてる時に、一番嫌な連中と喧嘩したくないよ」 「だってね夏子、今日は、大変なのよ」 「どこが」  夏子は、四十四歳にしては若いといわれる母を睨み返して、早口で言い返した。 「いい? 今さら一昨年《おととし》死んだお父さんの労災なんか会社に認めさせて、どうするっていうのよ? こんなに裁判、長引かせて、これ、支援するって名乗り出てきたあの人たちの面子《メンツ》で続けているだけじゃない。あたしもあんた——お母さんも、もう疲れきってるじゃない。気は休まらないし、ときどき変な電話かかってくるし、それなのにまだ何年も続くっていうじゃない」 「それがね夏子」 「あたし、嫌よ。もう、帰ってもらってよ」 「電話なのよ」 「え?」 「怖い電話。またかかってきてたの」 「だから」いまいましくて、夏子は息をつく。「あんな人権団体なんか相手にしないで、事故なら事故で済ませればよかったじゃない」 「でも、お父さんは立派だった、名誉《めいよ》を回復させたいって言ってくれるし——嬉しいじゃない。会社の人たちは冷たかったし……」 「——」  夏子は、ただため息をつく。  お気楽。  それが、この人だ。仕方がないか、青山学院《あおやまがくいん》の家政科で、社内結婚じゃ……。 「ちょっと、来て」  母は袖を引く。 「嫌よ」 「いいから、来て。もうすぐ警察の人も、来てくれることになっているの」 「相手にされてないんでしょ」 「団体の人が、引っ張って連れてくるって」 「——」 「いいから、来て」 [#改ページ]         5 (——)  リビングに続いている畳の間から、香《こう》の匂いがする。六畳の間にしつらえた神棚《かみだな》に、誰かが線香を上げているのだ。  家の中に仏壇《ぶつだん》を置くなんて辛気くさい、うちは無宗教だし、一人娘のわたしはミッション系だし、第一、江戸時代の寺請け制度以来、堕落《だらく》しきって民衆から搾《しぼ》り取ることしか考えていない仏教の祭壇なんか、どうして置かなきゃいけないのよと主張したのは、夏子だった。  仏壇はどうしても嫌だ、という夏子の主張で、母は白木《しらき》の神棚を注文して、そこに父の遺影《いえい》が飾られることとなった。でも母は神式の榊《さかき》を供《そな》えるだけでなくて、遺影の前に線香立ても置いた。だってね、夏子ちゃん。こうしないとお父さんを供養している感じが出ないじゃない? お見舞いに来てくださるお客様の手前もあるし——そう母は言った。  でも、生前の父の勤務先だった会社の幹部の人たちは、結局ここへは一人も来なかった。見事なくらい、一人もこの神棚の前には来なかった。代わりにしょっちゅう来て、線香の煙をまき散らしているのは、夏子の嫌いな団体の連中だ。  制服のまま、スリッパを履いた夏子が顔をしかめてリビングへ入っていくと、続きの畳の間で神棚に正座していた三十代の男が、座ったままでこちらを向いた。いつものジャンパーに、セーター姿。  ださい……。 「やぁ、夏子ちゃん。無事でよかった」 「——」 「夏子、ご挨拶」 「——どうも」  わたしはあなたが——いえ、あなたたちが嫌いです、と顔に書きながら会釈《えしゃく》したのだが、髭面《ひげづら》の男は感じないようだ。  この成田という三十代半ばの男、労働者団体の活動家だというけれど……。女の子の表情から何かを読み取る繊細さは持ち合わせていないのか、と夏子は思う。こういう種類の人間、確かにいるけれど。世の中には……。  夏子の無事を知らされて、ほっとしている、という風情《ふぜい》の男に、気づくといつものように口を開いていた。言わずにいられない。性分だった。 「あの。いつも言ってますけと浅田さん。あなたたち、もうやめにしてもらえませんか。一昨年死んだ父の事故が、労災になろうが、なるまいが、お父さん帰ってこないし。労災が認められたところで、うちに入るお金よりも訴訟費用のほうがかかっちゃってるみたいだし——」 「いや、夏子ちゃん」  男は遮った。 「夏子ちゃん、費用は心配ない。いつも言ってるだろう、みんなのカンパてしのいでいるし、弁護士の先生方も手弁当《てべんとう》で協力してくださっている」 「でも——」  夏子ちゃん、なんて呼ばれたくないよ。呼ぶなよ——と思いながら夏子は言い返す。 「でも、それで何年かして、会社が折れて労災ってことになっても。そうしたら下りたお金、はいそうですかって、うちがもらって使うわけにいかないでしょう」 「……」  母が、困ったように後ろで黙る。いつもだ。そんなおとなしいお嬢様だから、こういう団体の人たちなんかに丸め込まれるのよ。ったく、情けないったらありやしない。 「意味がないわ」  夏子が〈いつものように〉そう主張すると、 「いや、そうじゃないんだ夏子ちゃん」  男も、打てば響くように反論する。 「僕たちの団体が、君たち——君とお母さんを、支援させてもらっているのは。この労働災害訴訟が、君の亡くなられたお父さん、戸田労務部長の交通事故に、労災を摘用《てきよう》させることだけが目的じゃないんだ。何度も言うけれど、これは『始まり』なんだ。僕たち日本の労働者全員が、生きる道を切り開くための闘いの始まりなんだ。つまりね——」  そこから約五十五秒間。夏子は、男が息を吐き散らしつつ熱っぽく語って聞かせる話を、ただ左の耳から右の耳へ通過させることに神経を集中した。  あんたの言う『僕たち』に、あたしのうちを入れないでくれる……? 夏子は思った。それはうちだって、労働者だけど……。 「——というわけで、戸田労務部長は、僕たちの仲間である非正規雇用従業員の待遇を大幅に改善し、ほぼ全員を東海道《とうかいどう》自動車《じどうしゃ》の正社員にしてくれようとしたんだ。本来なら、大手自動車メーカーの労務部長職なら従業員の賃金を切り下げるのが仕事のはずだ。だがお父さんは、違っていた」 「……」  夏子は、神棚にちらと視線をやる。四角い額に納まった写真がある。  戸田|光一郎《こういちろう》。  父親似と言われる夏子の、父だ。  遺影は光一郎が四十四才の時——亡くなる直前に業界紙の座談会で撮られた写真だ。勤務する会社では『出世頭』と呼ばれていた。このままいけば四十八くらいて東海道自動車の役員、末は社長も視野に入る——そういわれていたのだと聞かされたのは、亡くなったあとだ。  それが……。 「……」 「若者の、貸金を上げなくてはいけない」  成田という男は続けた。 「若者の待遇を、よくしなくてはいけない。若者みんなが希望を持って東海道自動車のクルマを買えるようにしなければ、自動車産業に将来はない——お父さんは、常々そう言っておられた。将来にわたって自動車産業を引っ張っていかれるリーダーとしての、ご見識だった。そして手始めに労務部長として、東海道自動車に働きにきている若い派遣従業員みんなを、東海道の正社員として登用し、クルマが買えるようにしよう。そう考えられ、実践されようとした。素晴らしい行動力だった。志《こころざし》を同じくしていた厚生労働省の官僚と協力し、参院で過半数を振っている野党の議員に働きかけ、製造業への労働者派遣を禁止させる法案を、国会に出させようとした。そして、交通事故に見せかけて殺されてしまった」 「……」  夏子は、苦い唾が込み上げてくるのをこらえながら、頭を振った。  嫌なことを、思い出させないでよ。 「……あの事故は——事故だったって、警察も断定したわ」 「その警察の断定が、おかしいんじゃないか。その日は、お父さんはその厚労省の官僚と、伊豆へゴルフに出かけた帰り道だった。きっと盗聴されないゴルフ場で、打ち合わせをしていたんだ。企業の労務部長が、監督官庁の官僚と折衝《せっしょう》に出かけたなら、これは立派な『業務』じゃないか。ところが当の東海道自動車は、お父さんの事故を『業務中の労災』と認めないばかりか、官僚に接待ゴルフをしたのは企業倫理に反する行いたったとして死亡してから処分し、免職にしてしまった。不可解なことに、お父さんの車に正面衝突したダンプカーの運転手は数日後に山中で『自殺』、同乗していて重傷を負った厚労官僚は、その後すぐに法案提出の動きを止めてしまった」 「……」 「警察は、あの出来事を早々『事故』と決定して、事件性はないとして、何もしようとしない。これはおかしいじゃないか!? でもあの事故を『労働災害』と認めさせる訴訟をまず起こせば、事故の経過が明らかになる。警察は事故現場の証拠物件を出さなければならなくなる。新しい証拠も、出てくるかもしれない。お父さんが、本当は殺されたんだっていうことを——」 「もうやめて」  夏子は三つ編みにした頭を振る。  こういう話は、嫌。  嫌なことを、続けて思い出させられる。一年半前の父の死に至った経緯を聞かされると、決まって次に、葬儀《そうぎ》の日のことを思い出してしまう。  思い出したくないのに、浮かんでしまう。  父の葬儀の日。斎場《さいじょう》へ一人だけきて、『退職金はありませんよ』とか口にした自動車会社の人事部の課長補佐だとかいう男の言葉が、浮かんでしまうのだ。『戸田元労務部長は、会社に多大な迷惑を及ぼす重大な反社会的行為を行ったと分かったので、死亡後ですが懲戒処分《ちょうかいしょぶん》と決定しました。従って退職金も見舞金も一円も出ません。香典も置きません。懲戒処分ですから。それから戸田元部長の社内預金が会社の口座に一千万円ほどありましたが、これは会社に損害を与えた賠償《ばいしょう》として、没収《ぼっしゅう》します。一般財形が五百万、それから持ち株会にも自社株が一万株ほどありましたが、これらもすべて没収。それから会社から元部長への住宅貸付金の残高が三百万円残っていますが、これについては即日現金で返していただくことになります。今日中に返していただきます。葬儀の真っ最中ですが、関係ありません。銀行が閉まる時刻までに返さなかったら、尾山台のご自宅は、会社の弁護士が差し押さえて競売にかけます。あなたがたは、すぐこの三百万円を会社に返しなさい。返さなくてはいけません。返すことを、命令します。それから——』  嫌だ。  大人たちのこういう話は、嫌だ……。  聞きたくない。  課長補佐の男が『すぐ返せ』『今返せ』『三百万円すぐ返さなければ家を差し押さえて競売だ』と強要したので、仕方なく母が父の火葬中に中座して、銀行へ行き預金を下ろしてその場で男に手渡したのだった。  その木下《きのした》という三十代の人事部課長補佐の男は、その後も、生命保険会社から父の死亡保険金が下りたことをどうやってか知ると、『それもよこせ』と言ってきた。そして不可解なことに、振込先として自分の名義の銀行口座を指定してきた。  さすがに母が「会社に言いつけますよ」と抵抗すると、いったんは引き下がったが、次の日からなぜか宗教団体や慈善《じぜん》団体や平和団体と称するグループが、あとからあとから家に押しかけてきて、『寄付をしろ』『寄付をしろ』と大声で騒ぎ始めた。  それが、一年半前だ。  青香女学院という、中高大学一貫のミッション系の女子校で、本ばかり読んで暮らしていた真面目な学生だった夏子が、しだいに世の中を斜めに見て皮肉るような言動ばかりするようになったのは、その頃からだった。  宗教因体や慈善団体や平和団体が、毎日家の呼び鈴をピンポンピンポン鳴らして『あなたがたの罪を悔い改めるため寄付しなさい』『アフリカの子供がどうなってもいいのか』『アジアの人民に謝らないつもりか』とインターホン越しに恫喝《どうかつ》してくるのを、嫌がって相手にしようとしない母に代わって夏子が応対し、なんとかして追い返すようになっていった。  近所に白い目で見られながら、半年もかかってようやく門の前が静かになると。今度は金を要求する団体に代わってやって来たのが、この連中——労働者団体のメンバーたちだった。 「夏子ちゃん、いいかい」 「——」 「若い人がクルマを買わない、買えない。なんとかしなくちゃいけない——というのは、自動車メーカーの人間なら今時分、誰もが口にすることだ」 「——」 「ならば、下手な販促キャンペーンなど打つより、まず自分のところの若い非正規雇用労働者を、全員正社員にすればいい。そうすれはまず彼らがクルマを買うだろう——だがこっちの考えは、誰もが頭では思っていても、口には出せないことだ。会社で口に出せる空気じゃない」  浅田という男は、黙っている夏子に構わず続けた。 「ところがお父さんは、そのことを社内で堂々とおっしゃった。役員会にまで出ていって発言された。自分のところの若い期間工を安く使い捨てておいて、『若い奴がクルマを買わないのはけしからん』というのは馬鹿だ、大馬鹿だとまでおっしゃった」 「——」 「みんなが考えてはいたけれど、口には出せずにいたことを、お父さんは堂々とおっしゃった」 「——」 「きっと、言わずにおられなかったんだな」 「……」  夏子は顔を背けた。 「……事故の話は、もう何度もしたわ」 「そうだね」 「わたしも、初めは、会社を相手に裁判するっていうことに少し期待して、あなたたちの言葉に乗り気になったわ」 「うん」 「少しは、たたかってやろうっていう気持ちになったわ。だって、お父さん長いこと働いてきたのに、会社の人たちの対応、あんまりだったもの。少しは、やり返してやりたいっていう気持ちもあったわ。わたしなりに、気持ちの上では、たたかった」 「うん」 「でも。いくら活動しても、会社側の弁護士が何十人も出てきて裁判では押され気味だし、警察はただの事故だって言い張るし。あなたたちが地裁の前でビラをまいて叫んでも、マスコミは一度も取り上げないし」 「夏子ちゃん、マスコミは東海道自動車からCMや広告を引き揚げられたら困るのさ。だが、見ていてごらん。そのうちにきっと——」 「そう言われてから、もう一年だわ」  夏子は三つ編みの頭を振った。 「そのうちに、うちには変な電話がかかってくるようになるし。始終、監視されてるような気がするし。宗教団体も慈善団体も平和団体もときどき思い出したみたいに押しかけてくるし、わたしとこの人と、女二人しかいない家庭には、凄まじすぎだわ。半年続いたら、もうわたし疲れきって、嫌になってしまった。この人も最近じゃ、意気消沈《いきしょうちん》して泣いてばっかりいるし——」  この人、と言う時。夏子はいまいましさを込めて、後ろにいる葉子を目で振り返った。 「とにかくもう、たくさんだわ。この家を、あなたたちのやりたい活動の〈材料〉にされるのは、もうごめんだわっ」 「夏子ちゃん」 「正直、もういいわ。ごめんだわ。日本中の労働者がどうなろうと、うちとは関係ないわ。もう、出てってほしい。もうわたし、学校では家のこと忘れようとして、いろんなこと考えて……。そしたら死にたくなってくるし——最悪だわ」 「だが夏子ちゃん、僕たちの敵は、卑怯《ひきょう》にも君の命を狙ってきた。僕たちは、君と、君のお母さんを、護らなくてはならない」  成田は、そう言うと、いつの間にか上がり込んでいた若い男のスタッフに、目で促した。  この人たち——この家を、まるで自分たちの集会所みたいに……!  だが若いスタッフは、むかつく夏子の前に、一本のICレコーダーを置いた。 (何よ、これ……?)  思わず見返すと、 「お母さんの携帯に、かかってきた通話の録音です。途中からですが」  まだ学生のようなスタッフが説明した。 「お母さんが、とっさに途中から録音されたのです。携帯からマイクロSDカードを抜いて、こちらへセットされています。今日はお母さんが、緊急に我々をお呼びになったのです」 「……?」  スイッチが、入れられる。 [#改ページ]         6  だが銀色のICレコーダーがプツッ、と雑音を立てた時。  どかどかどかっ  玄関の方から、遠慮のない複数の足音がした。 「浅田さんっ、警察を連れてきましたっ」  それは新しい闖入者《ちんにゅうしゃ》だった。興奮した面持ちの、セーターにジーンズの若い男が、リビングの扉を開けて勝手に入ってきた。 「おう」  浅田が『待ちかねた』という風情で立ち上がる。 「よし、入ってもらえ」  入ってもらえ……?  こいつら、また人の家を集会所みたいに……!  夏子はムッとした。だが若い男の後ろから、大柄な制服の警官が二名、狭い動物園の檻《おり》につかえるクマのようにのっそり続いて現れたので、息を呑んだ。  警察……?  なんだ。 「はい、どうしましたー?」  二名のうち、初めに入ってきた年かさのほうの警官が、リビングの空気を仕切るように大声を出した。必要以上に大きな声、という感じだ。続いて「この家の世帯主はどなた?」と訊いた。 「おい」  浅田が今度は驚いた風情で、声を低めてセーターの若い男を咎《とが》めた。 「捜査一課の刑事を呼べって、言っただろうっ」 「そんなの無理ですよ」若い男も声を低め、言い返す。「所轄署《しょかつしょ》に駆け込んだけど、捜索願いを出すなら本人の家族が直接申請にこいって、それだけ言われて追い返されました」 「だけどお前——」 「だって、俺のこと全然相手にしてくれなくて、仕方なく一一〇番して——」  彼らが、警察を呼んだのか。  小声の言い合いを耳にして、夏子は、わけは分からないけれど成田の率いるグループが、事件捜査をする警察の刑事を呼ぼうとしたのだ——と知った(実際にやって来たのは、一一〇番すればとりあえず飛んでくる街の巡査たちだったが)。  しかし、いったいなんのために——!? 「お巡《まわ》りさん、とりあえず、これをちょっと聞いてください」  浅田は、それでも精いっぱい気を取り直した様子でICレコーダーを制服警官に差し出すが、 「はいあなたがご主人?」  警官は、まるで柔道の指導員が道場で練習生を相手にする時のような(実際、そういうことをしているのかもしれない)大声で、訊いた。そのいかつい肩に、イヤホン式の携帯無線機が取り付けられている。一一〇番通報が警察に入ると、無線で指示が飛んで、現場へ駆けつける仕組みなのだろう。 「いや、そうじゃなくて——」 「じゃ、世帯主は誰?」  みんなが、椅子の上で小さくなっている葉子を見た。  よく分からないが、地回りの警察官には、呼ばれた家の責任者である世帯主とまず話をする、という決まりがあるのかもしれない。 「はい、あんたね。どうしました?」 「……いえ、あの」  葉子は、居心地悪そうに、座ったまま小さく会釈をした。  この人は。夏子は思った。また『矢面《やおもて》に立ちたくない』という、いつもの態度か……! 情けない。恥ずかしくなった。事情が掴めていたら、わたしがこの場を仕切ってやるのに——とさえ思った。 [#挿絵(img/01_087.jpg)] 「ちょっと、変な電話が——」  遠慮がちに、葉子は話し始める。  それでも、この母にしては、話す方か——と夏子は思った。今日、成田たちを家へ呼んだのも母自身だったという。  いったい、何が起きたのだろう。 「はい、どうしましたー?」  大きな声で、警官が訊く。  大柄な中年の警官が、それでも少しは親切そうな表情で、座っている葉子に向き合ったのは、女優の誰それに似ている、といわれる葉子の容貌のためだろう。  見知らぬ他人が、母が困っていると変に親切にしてくれる——というのを、手を引かれていた小さな頃から夏子はよく目にしていた。現在でも、葉子は四十四歳には見えない。 「あの、わたしの携帯に、今日の午後、変な——」 「脅迫電話ですよ、お巡りさん」  浅田が割り込んで、何か文句を言われる前にと思ったか、突き出したICレコーダーのスイッチを入れた。 「とにかく、これを」  カチッ  音量をいっぱいに上げたためか、ざらついたノイズがまずリビングに流れた。  続いて、 『——娘さんが今日、大変な目に遭うだろう』  なんだ……!?  唐突に、飛び出した変調された声。  夏子は眉をひそめた。レコーダーから出てきたのは、まるで古いアニメのドナルド・ダックが悲鳴を上げているような音声だ。全員が、そのレコーダーに注目した。  ボイス・チェンジャーとかいうのだろう、テレビの犯罪ドラマで聞いたことのある、滑稽《こっけい》に変調された声は続く。 「娘さんは学校で銃に撃たれ、可愛い顔がぐしゃぐしゃになって死ぬ。もし学校から逃げおおせても、さらわれて変わり果てた姿で見つかるだろう』  プツッ  唐突に始まった音声は、唐突に切れた。  録音された通話の中に、葉子の応える声は入っていなかったが。ドナルド・ダックの声に、こわばるような女の息が重なっていた。おそらく一言も言い返せず、それでもとっさに録音の操作だけは行った葉子の息遣いだ。 「これで全部かね」  変調された〈脅迫電話〉の音声を聞かされ、大柄な警官は、厄介事《やっかいごと》を嫌うような、面倒くさそうな表情て顔をしかめた。 「そうです、時刻は午後四時頃」  成田は説明した。 「こちらの奥さんの携帯に、この声でかかってきたのです。もちろん『非通知』で」 「いたずらじゃないのかね」  警官は、腰に手を置くと家の中を見回した。普通の家なのに、労働組合風の男たちがたむろしていることに不審そうな顔をする。  葉子に向けていた親切そうな表情は、消えてしまう。 「あんたたちは、何かね?」  すると後ろから、眼鏡をかけたもう一人の警官がな「内藤《ないとう》さん、この家、ほら例の——」ぼそぼそと耳打ちをした。  大柄な警官は「あーそうか、そうね」とうなずく。  何が「そうね」なのだろう。 「自動車メーカーを相手に裁判をやって、いろいろ近所迷惑になってるっていう家ね。はいはい」  近所迷惑……!? (——)  夏子は、メタルフレームの眼鏡の眉間を、指で弾かれたような感じがした。  思わず、大柄な警官を睨んだ。 「だから」  浅田が言う。ICレコーダーを苛立たしげに示してみせる。 「これはですね、我々のやっている裁判を取り下げないと、この家のお嬢さんを殺すっていう、脅迫ですよ。『今日娘を殺す、逃げてもさらう』って」 「そりゃあ大変だ」  警官はうなずく。 「で、その娘さんは?」 「——ここにいますけど」  全員が、自分の顔を指さす夏子に注目した。一瞬、緊迫しかけた空気が、すぐに緩んでしまう。 「あぁ、つまりだ。娘さん、無事なのね」  こりゃ、いたずらかな——そうつぶやきかける警官を、珍しく葉子が「ち、違います」と遮った。 「あの、違います。この電話があってすぐに、青香女学院で乱射事件が起きて——つけていたテレビにニュース速報が出て驚いて、すぐこちらの浅田さんにも知らせて、学校へ駆けつけたんです」 「でも、死者ゼロだったでしょ。夕方の事件」  広尾で起きた乱射事件のあらましについては、警視庁の警官だから、知らされているようだ。 「確か速報が出たのは、乱射事件が起きて、少し経ってからだった。もし事件現場のすぐ近くにいた人間でお宅の娘さんがその学校へ通っているのを知っている人物なら、こういういたずらは可能だな」 「でも、お巡りさん——」  母は言う。 「この携帯に、着信した時刻を見てください。かかってきた時刻と、乱射が起きた時刻を、警察で照らし合わせていただければ——」  そうだそうだ、と浅田をはじめ男たちが横で言う。  しかし、 「あぁ駄目駄目」警官は、うちわのように大きな手を振る。「個人の携帯の中の時刻なんてね、いくらでも変えられるの。証拠にならないの。電話会社の通話記録なら証拠になるけどね、それを警察が提出させようとすると、令状がいるの。そのためには事件にしないといけないけど、これ、事件にならないでしょ」 「そんな」 「事件ですよ、お巡りさん。脅迫に殺人未遂に、誘拐未遂だっ」  浅田が叫んだ。 「これは東海道自動車が裏で手を回して、『裁判をやめろ』と脅しているんだ。訴訟を取り下げないと娘を殺すって、脅してきたんだっ」 「ほう」  大柄な警官は、職業柄、労働者団体の活動家であることがすぐに分かるらしい。浅田の髭面をさらにうさん臭そうに見た。 「でもその電話、『裁判をやめろ』とあんたたちに言ったのかね?」 「そう、はっきりとは……」  葉子が口ごもるのを、 「いやでもお巡りさん、これは明らかですよっ」  浅田が割り込む。 「裁判をやめろ、訴訟を取り下げろという、脅しに決まっている。そうでなくて、どうしてここの娘が狙われたりするんですっ。動機がない」 「でも『裁判やめろ』とは、言ってないんだろ」  警官は不機嫌そうに浅田を睨むと、次に人垣をすかすようにして、夏子を見た。 「ここの娘さん、あんたね」  わたしは『ここの娘』じゃない、戸田夏子だ、と思っていた夏子は急に呼ばれて「はい?」と警官を見返す。 「娘さん、あんた今日、何か怖い目に遭ったかね。学校で、狙われて撃たれたり、学校の外でさらわれそうになったりしたかね?」 「——え」  夏子は、口ごもる。  警官は、知らされているらしい情報を口にした。 「本日の午後四時過ぎだ。錯乱した男が確かに広尾の女学院の構内で銃を乱射、暴れ回ったということたが、死者はゼロだ。銃弾に当たって負傷した生徒がいたという報告も聞いていない。あんた、学校で銃で撃たれたかね? 帰り道にさらわれそうになったかね?」 「——」  夏子は、警官の質問よりも「死者ゼロ、負傷者なし」という言葉の方に引きつけられた。  そうか……。あの乱射事件では、死者はいなかった。青香の女子生徒たちは同級生も先輩も後輩も、テニス庭球部の子たちもチア部の連中も、みんな無事で助かったのか——  ——『すばらしいわ。ナツコ』 「う」  あの猫娘の声が延り、思わず頭を振った。 「どうなのかね。あんた」 「え」 「え、じゃないよ」  警官は苛立たしそうに、いかつい肩を揺する。  その肩に付けた無線機が、何かノイズを吐き出す。 「あぁ、ちょっと待て」  警官は、無線機のイヤホンを耳に突っ込むと、肩の渦巻きコード付きマイクを取った。 「はい、移動十八号、送れ」 「そういう高圧的な訊き方があるかっ」  無線に何か応えている警官に、浅田が口を挟む。 「見ろ、夏子ちゃんは思い出したくなくて、怯えているじゃないか」 「うるさい」  警官は手で制し、無線に応答する。 「はい了解。ただちに急行する」  どこかほかの場所で、一一〇番通報があったのだろうか。いかつい警官は、もう一人の眼鏡の警官に「九品仏《くほんぶつ》のパチンコ店で喧嘩だ」と言った。 「ただちに、急行するぞ」 「ちょ、ちょっと待ってくれっ」  出ていこうとする警官を、浅田が止める。 「あんたたち、どこへ行くんだ。一一〇番で呼ばれたんだろう。ちゃんと処理していかないのかっ」 「うるさい」  いかつい警官は、労働組合風の男が嫌いなのか、あからさまに迷惑そうな顔をした。 「いいかね。我々|警邏《けいら》係は、本部から無線一本で『あそこへ行け』『ここへ行け』と命じられて、たいていはまともでない連中のいる場所へ行かされて、いきなり『あれが起きた』『これが起きた』と訴えられるのだ。そういうのをね、全部|真《ま》に受けて、まともに相手にしていたらきりがないんたよっ。特にあんたらのような、過激派だか組合だか分からないような連中の話は、特にまともに聞いてはいけないのだ。それが警察の常識だっ」 「な、なんだとっ」  警官が感情として、この家にたむろしている男たちを気に入らないらしい——ということは、表情を見て分かった。過去に、何かあったのだろうか。  浅田は鼻息を荒くした。 「こ、これだから、四十過ぎても警部補試験に受からない外回りのお巡りなんて、当てにならないんだっ」 「なんだと貴様っ」  肩を怒らせた警官を、眼鏡の警官が「だ、駄目ですよ抑えて、抑えて」と止める。 「とにかくね奥さん」  いかつい中年の警官は、椅子にまだ座っている葉子だけを相手に、言った。 「もしも心配があるなら、署の防犯係に直接来て、相談しなさい。きちんと対応すっから。いいね」  結局、警官二名は無線に呼ばれたのを潮時《しおどき》に、来た時と同じようにどかどかと帰っていった。  玄関が閉まったのち、浅田のグループの男たちは、リビングにあぐらをかいて座り込むと、口々にため息をついた。 「……」 「——」  空気が沈み込んだ。 (なんか……わたしが無事に戻ってきたの、残念なのかしら。この人たち——)  まさか、葉子の携帯へかかってきた電話は、成田たちの組織が自作自演したのではないか——そんな考えすら、浮かんだ。  うちが東海道自動車から脅迫された、という報道でもされたら裁判が有利になる、と思ったのか? だいたい、母親の携帯の番号、知っていたわけだし—— 「とにかく、もう帰ってもらえませんか」  夏子が言うと、 「いや、我々は善後策をここで——」  あぐらをかいて車座になった男たちは、これから協議でも始めようというのか。  夏子はため息をつく。 「もう、いい加減にして」  その袖を、葉子が引っ張った。 「夏子ちゃん、ちょっと」 「何よ」 「いいから」  二階の勉強部屋へ上がると、夏子をベッドへ掛けさせ、葉子は小学生時代から使っている夏子の勉強机の椅子に座った。  キィと音がする。 (——)  夏子は、自分がまだ制服なのに気づいた。三つ編みにした髪も、ほどいていない。とりあえずスカーフを解《と》いて、勉強机の椅子で脚を畳に投げ出すようにしている葉子を見た。  息をつきながら、言った。 「——そんな電話、あったんだ。うちに」 「そうよ」  葉子は頬杖をついて、うなずく。 「あったわ」 「いたずらじゃないの? これまでみたいな」 「殺すとか、さらうとかは初めてよ」 「そりゃ、そうだけと」 「地裁が、もうすぐ結審でしょ」 「そうなんだ」  最近は、裁判にも関心が失《う》せていた。  どうせ、半分以上、あの連中が自分たちの組織のためにしている闘争だ。  会社側に押されている——とだけ耳にしていた。 「結審したら、判決でしょ。いくらなんでも、マスコミにもちょっとは出るだろうし……。だから、わたしたちに訴えを取り下げさせたいのかって、お母さん思ったわ」 「でも脅迫電話、『裁判やめろ』なんて一言も言わないんでしょう」 「言わないわよ。向こうが脅したって、世間に知らせるようなものだもの」 「もう」  夏子はまた息をつく。天井を見る。 「もう、よそうよ。疲れるよ」  すると葉子は、夏子を見た。 「かんたんに、あきらめるのね夏子ちゃん」 「だって——」 「最初は、あなた熱心だったわ。お母さんより」 「——」 「お父さんの汚名をすすぐんだって。亡くなったあとの会社の仕打ち、ひどいって。怒ってたわ」 「だって」  髪をほどこうとした手を、夏子は止める。  天井を見たまま、唇を噛む。 「でもあたしなんか、いくら頑張ったって……」 「真っ向から、たたかおうとなんてしたからよ」 「何よ」  夏子は母親を睨む。  この人は。そんなこと言えた義理か……? 「あんたね、面倒なことは他人まかせにして、後ろでただしおらしくして。この頃ずっと『意気消沈』って感じだったじゃない。今日はびっくりした」 「電話が?」 「違う。あんたがさっき、大きい声出したから」 「娘がさらわれたかもしれないって思っていれば、それは声くらい出るわよ」  葉子は、机に頬杖をついたまま薄型の箱からタバコを取り出して一本唇にくわえ、百円ライターて火をつけた。  薄荷《メンソール》の匂いのする煙が、漂った。  え……? 「——あんた、タバコ吸うの?」  夏子は目を見開く。  葉子はふうっ、と煙を吐いて、 「また、始めちゃった。お父さん死んでから」 「——」 「気づかなかった?」 「——」 「親のことを、見てないね夏子ちゃん。あなた自分にしか関心ないから」 「何よ」  ふいに、葉子の雰囲気が変わった気がした。  夏子は目をしばたたく。  なんだろう……。 「夏子ちゃん」 「え」 「あなた、わたしのこと、世間知らずのお嬢さんだと思ってるでしょ」 「——え」 「男が、分からない」  ふっ、笑って葉子はまた煙を吐いた。 「偉そうにしてるけど、あなた、まだでしょ」 「——え!?」 「わたしは、あったわよ。高等部の二年」 「うそ」 「娘に、嘘つかないわよ」 「——」 「後《おく》れてる」 「う、うるさいわね」  夏子は勉強机で脚を組んでいる母親を睨んだ。 「そういうとこ、信じられないのよ。あんたの」  でも、最近——というか高等部の制服を着た頃から葉子とは全然、会話をしていなくて、『親のことを見ていない』というのは本当だった。 「わたしね」  葉子は、さっきまでしおらしく椅子の上て小さくしていた姿が嘘のように、脚を組んで低い声になり言った。 「わたし、男を見る目だけはあるの」 「——え」 「付き合ってたの。お父さんと知り合う前、広告代理店の凄くかっこいい人」 「——」 「でもね、わたしのここが、囁いたわ。『こっちの、新しくわたしの前に現れた人のほうが、地味だけどきっと出世する』——だからね、お母さん乗り換えちゃった。お父さんに」 「——」 「その代理店の男、その後どうなったと思う?」  どうなった——って……。  ふふ、と笑うようにして葉子は、口に含んだ煙を吐いた。 「夏子ちゃん」 「な、何よ」 「わたしだってね。労働組合の男たちなんて、嫌いよ。わたしの好きなのは、経営者になるような人。組合が団結しようっていうのは、自分だけ上へ行くのは許さないぞっていうことだし」 「……」 「でも階下《した》にいるあの人たちは、今夜いてもらうわ。毛布を出して、泊まっていってもらう」 「どうして」 「だって、いいこと? もし今、階下にいるあの人たちを追い出してしまって、女二人きりになってしまったら。この家をどうやって守るの? あなたが無事でいると分かって、また何者かが襲ってきたりしたら? お母さん怖いわ」 「——」 「番犬を飼っているんだと、思えばいいわ」 「番犬?」 「彼らは、団結して、強いものに噛みつくのが大好きな男たちだわ。向こうから、お母さんと夏子の代わりに会社に噛みつかせてくれって言ってきた。だからお母さん、わたしたちの代わりに、会社に噛みつかせることにしたの。わたしたちは、しおらしくして、後ろにいるの。自分でたたかおうなんて、夏子ちゃん、そんなふうに真面目に考えちゃ駄目。そういうとこ、お父さん似なんだから困るわ」 「……」 「もうすぐ、地裁が結審になるの。過去の判例からすると、労災認定のところでは勝てるだろうって、弁護士さんたち言っていたわ。労災でお金が下りたら、きっとあの人たち「そのお金は団体にカンパしろ』って暗に言ってくるだろうけど、お母さんいつものようにしおらしくして、一銭《いっせん》も渡さないわ。  だって夏子ちゃん、あなたを大学まで出して、いい人を見つけさせてあげて、きちんとした結婚式を挙《あ》げさせてやらなくちゃいけないんだもの。お金は、いくらあったっていいわ。だからお母さん、あの人たちには一銭も渡さないわ」  この人ってこんなにしゃべるんだ——  夏子は、話の内容よりも、葉子が自分に対して長くしゃべった事実にただ驚いた。  この頃、母親がしゃべるところを、見たことがない——というか家では、二人一緒の部屋にいようとしなかったから……。葉子の態度が気に食わなくて、リビングで仕方なくご飯を一緒に食べる時でも、微妙に避けていた。テーブルで対角線にいるようにしていた。葉子と会話を交わそうと思うこと自体がなかった。  へぇー何か、いろいろ考えていたのか。この人でも——  だが、 「——あのさ」  夏子が、口を開きかけた時。  どこかで携帯の呼び出し音がした。夏子のものではなかった。 「いやだ」  葉子が、電子音を鳴らしている携帯を取り出して、顔をしかめた。  たった今、したたかそうな表情をしたのが、また面倒事から逃げる時の顔になった。 「わたし、出たくないわ。夏子ちゃん、出て」 [#改ページ]         7 「わたし、出たくないわ。夏子ちゃん、出て」 「え」 「だってほら、見たことない番号だもの。嫌よ」  電子音は鳴り続ける。  夏子も、突き出された携帯に思わずのけぞる。  人に、押しつけるなよ……!  階下に、誰か呼びにいこうか……。  いや待て、あの団体の連中には「帰ってくれ」と啖呵《たんか》を切ったばかりだ。  いざとなったら、あの男たちに頼るのか。しょせんは『か弱い女』だからか……? (冗談じゃない。わたしは、この人みたいな女じゃない)  そうだ。  だいたい何よ、乗り換えただの、いい人見つけさせて結婚させるだの——いい加減にしろよっ。  そう思いながら、夏子は母の差し出したシルバーピンクの携帯を手に取って、開いた。  耳に当てた。  さすがに、あんな録音を聞かされたあとだ。携帯に登録されていない番号の着信は、気味が悪くて、自分からは声が出ない。  ところが、 『ショップ・チャンネルです。戸田様、いつもありがとうございます』  柔らかい女性の声が、言った。 『キャンセル待ちされていましたバッグが、ご購入いただけることになりました。いかがなさいますか?』 「——」  肩の力が抜けた。  夏子は携帯を、葉子に返した。 「はい、これ」 「なんだった?」 「テレビ通販」 「そ、そう」  葉子は受け取ると、応対した。  こんな時に買い物などしていられないだろう——と思ったら、葉子は「そう。それじゃ、いただくわ」とうなずいている。 (どういう神経……?)  わたしの部屋の外でやってよ……。  夏子は、やはり母親といたくなくなって、廊下へ出た。  階下へも、行きたくない。  二階の廊下から、物干し用のベランダへ出るガラスのドアがある。  夜空の下へ、サンダルを突っかけて出た。  見上げると、曇った夜空。 (——)  さっきわたしは、この空を—— 「あぁ、眩暈《めまい》がしてきた」  ここ二時間で、いろいろなことが起きた。  自分は今、とても不安定になっているな——  夏子は、そう思った。  夜空を見上げ、両手で頬を挟んでみる。 「……」  血の通っている、自分のほっぺた——これは幻じゃない。現実だ……。  学校の屋上から飛び降りて、どこかへおちて生死の境をさまよっているんじゃない。  では、あの猫娘は本物——?  ふと、そんな思いが湧いて、夏子は自問する。  飛んだのも、事実……?  |あれ《ヽヽ》は実在するの……? 「——あぁ」  夏子は、三つ編みの頭を抱える。 「わけが、分からなくなりそうだわ」  その耳に、  プルルルッ  チャイムの音が聞こえた。  階下からだ。  なんだろう、インターホンの呼び出し音か。  夏子は顔を上げる。 (誰か、玄関に来たのかな……。こんな夜に。またあの連中の、仲間かしら……)  まったく、人の家を、自分たちの集会所みたいに——  舌打ちしながら、物干し台の手すりから真下の門と、玄関を見下ろした。  誰が来たのだろう。  すると、 (……?)  玄関前に、何かが見えた。  のっそりと、大柄な影が立っていた。  なんだろう。  紺色の、制服らしき背中だ。それが二人いる。  玄関の扉が、内側から開けられ、入ってくる。  警官……?  また、来たのか。  でもどうして、玄関が開いたのだろう。  チャイムを鳴らされて、あの浅田たちのグループが勝手に応対し、玄関を開けたのだろうか。 (……あたまくる)  母親は、つい今まで夏子の勉強部屋でテレビ通販の電話に答えていたから。チャイムを鳴らされ、そうすぐに玄関へは行けない。  夏子はムッとした。 (あいつらが、勝手にインターホンに出て、『入っていい』って応えて玄関まで開けたのか。文句を言ってやらなくちゃ……!)  夏子は、警官らしい二つの背中が玄関へ入ってくるのを確かめると、二階の廊下へ戻った。  あれはさっきの、二名の警官だろうか。  何か用があって、戻ってきたのか……? (——)  物干し台から廊下へ戻る時。  ふと夏子は、振り向いて頭上を仰く。  見回す。  夜空が、広がっているだけだ。  カラン  サンダルを脱いで、スリッパに履き替えた。  勉強部屋の前を通ると、中で葉子がまだ、携帯に話している。まだ買い物の電話か……? (ったく)  これで、警官二人を招じ入れたのは成田たちだとはっきりした。  やっぱり、文句を言ってやらなくちゃ……!  だが、夏子がスリッパでパタパタと階段を下りかけた時。  ふいに、  パンッ  階下で音がした。 「……!?」  パパンッ  続けて乾いた破裂音。  なんだ……?  思わず、脚が止まった。  なんだ、この音—— (……)  皮膚《ひふ》が何か感じ取り、背筋に寒けが走った。  この音——?  なんだろう。耳を澄ます。  すると、  どたたたっ  一階の床板を、大勢が転げ回るような響きがする。「うおっ!?」「うおぁっ」という——くぐもった声。これは悲鳴か……? 一瞬、家自体が揺れたような気がした。  パンッ 「ぎゃっ」  男の悲鳴。 (!?)  悲鳴——!? 「な、何、何を——うぎゃっ」 「ぎゃぁっ」  パン  パンッ 「ぎゃぁあっ」 「——!?」  夏子は、階段の途中で脚を止めたまま、息も止まった。  この音と、悲鳴——  反射的に、夕方のキャンパス内での破裂音と悲鳴が、脳裏に甦って重なる。  ——『きゃぁああっ』  悲鳴。  女子生徒たちに、悲鳴を上げさせて、追い散らしていたもの。  まさか—— (——銃……!?)  だが、そう思う暇もなく、  どたどたっ  ジャンパーを着た男の後ろ姿が、一階の廊下を転がるように逃げてくると、階段の真下で尻餅をついた。 「や、やめろ。やめろ」  震える声。  浅田か……?  あの男、こんな裏返った声を出すのか——? でも確かに浅田だ。尻餅をついたジャンパー姿は、階段の上がり口を背に、両手で何かを押さえるようにして訴えた。 「や、やめるんだ。こ、こんなことして——わっ」  夏子は階段の途中にいたので、浅田が誰に訴えているのか、見えない。  だが尻餅をついて訴える浅田に向かって、次の瞬間、ぬうっ、と何かが突き出された。黒いもの——それを握っている手。紺色の服の袖—— (け……)  夏子は息を呑む。  拳銃……!?  紺色の袖の手が、無造作に引き金を引いた。  パンッ!  浅田の上半身が弾かれたようにのけぞり、閃光と衝撃波が夏子の額をぶわっ、となぶった。 「——」  夏子ものけぞる。目を見開いたまま、動けない——  声も出ない。  なんだ、いったい何が——!?  逃げろ。  パンッ  一階のどこかで、別の発射音。 (——)  逃げろ。  夏子の中で、本能のようなものが告げた。  逃げないと—— 「ぎゃぁっ」  最後に大きな悲鳴がして、ふいに一階での物音は、しなくなった。  しん。 「……」  夏子は目を剥いたまま、階段の途中で動かない。  いや。 (……う、動けない——)  手足が固まって、言うことをきかない。怖いのに、逃げられない……!  どういうこと。これ、金縛り……!?  目の下に、仰向けに倒れた成田の髭面。上を向き、うつろな眼球がこちらを見ている。いや『見ている』というか——生きているのだろうか……?  浅田の、ジャンパーのはだけたセーターの胸が、黒く染まっていく。黒く染まった部分が、ぬらぬら濡れ光って見える。  あれは。  血……!?  途端に、  くらっ  眩暈がして、思わず手すりを掴み、身体を支える。  ぎしっ (——!?)  木製の手すりが鳴って、夏子はびくっ、とする。  見つかったか——!? いや。たった今、浅田を撃った紺色の袖は、視界にはない。  びくっとしたおかげで、金縛りが解けた。  上がらなくては。  今のうちに、上がらなくては。とりあえず、階段を二階へ……!  だが、  ずん、ずんと廊下を踏む響きがして、紺色の制服が再び目の下に現れた。  まるで、森でいきなり熊に出くわしたハイカーのように、夏子はすくみ、また動けなくなる。 「——」  息まで、止まった。  制帽を被っている。警官——本物の警官なのか分からない——は、さっきの中年の巡査とは別人らしかった。しかし同じくらいいかつい体格に見えた。おそらく武道のようなものを、相当やっている身体ではないだろうか。間合い二メートル半で見ると、制服の中で重たい筋肉が動いている感じがする。  こっちを、見上げるのか。  息を止めて固まっているせいか、まだここに立っていることは、気づかれていない。しかし、制帽の顔を上げられたら見つかる……。  だが警官は、死んだと思われる浅田の右の腕を持ち上げると、何をしようというのか、その手に黒い拳銃——普通の警官が所持する回転式でなく、平たい自動拳銃だったが夏子には区別などつかない——を握らせた。 (……?)  何を、しているのだろう。 「おい」  低い声を、警官は出した。  すると廊下を、もう一人の警官だろうか、紺色の制服が何かを引きずってやってくる。 「よし」  低い声がした  ぞっとした。普通の感情を持った人間の出す声では、ないような感じた。  その声を出した、夏子の日の下にいるいかつい警官は、動かない浅田の手に握らせた拳銃を、引きずられてきたもう一つの死体へと向けた。起らせたまま、引き金を引く。  パンッ  物体と化した死体が、至近距離で弾丸を撃ち込まれ、踊るように跳ねると床へ転がった。  ゴトゴトッ (——)  夏子は、すくんだまま。  な、何をしているんだ—— 「よし。こっちもだ」  夏子の視野の外にいる、おそらくもう一人の警官の両腕が、転がった死体を抱え直すと、もう一丁の拳銃をその動かない手に握らせた。今度は浅田の死体に向けて、引き金を引いた。  衝撃音。 「——!」  夏子は顔を背ける。  成田のジャンパーの死体が、跳ねるようにそり返り、ゴトゴトッと床に転がった。 「……」  夏子は、音を立てないように呼吸するのがやっとだったが——  今だ。  夏子の中で、何かが教えた。  逃げるのなら、今だ  夏子は、唾を呑む。  死体が転がる響きを隠《かく》れ蓑《みの》に、そうっとスリッパから足を抜き、階段を元来た二階へ、ゆっくりと後ろ向きにのぼった。  一歩、一歩。  階下に背を向けて、素早くのぼりたいが、できない。木製の段が、音を立てそうだ  後ろ向きに六段、上がりきると二階だ。渋谷の駅地下で買った新品のソックスをすり足にして、後ずさった。  葉子は——?  背中のすぐ後ろが、勉強部屋の扉だ。  母は、何をしている。  これだけの物音と騒ぎて、どうして出てこない  ——いや、下手に出てこないでほしい。 (頼むから、のんきに『どうしたの』なんて、顔を出さないでよ……!)  夏子は、とにかく葉子に急を知らせ、静かに音を立てずどこかへ隠れなければ——そう思ったが。 (……?)  二階の廊下へ後ろ向きに上がり、振り返ると。  勉強部屋の扉が、半開きになっている。  自分がさっき出た時に、開けていっただろうか  分からない。  見ると、物干しのベランダへ出るガラスのドアも、開いたままだ。  外の夜気が吹き込み、ガラスドアにかかったレースのカーテンが揺れている。 (……??)  自分の性格からして。物干し台へ出るガラスドアを、開けたままにするだろうか——?  頭が、混乱してくる。  空気が、普通でない。 「——」  階下に気取《けど》られるから、足音は立てられない。夏子は、すり足で勉強部屋の扉へ近づく。葉子と一緒に、どうにかしてここから逃げなくては……。  だが、  ごとっ  部屋の中で、物音がした。  なんだ。  そうっ、と扉の隙間から覗いた。 「……!」  悲鳴を上げそうになるのを、手で押さえてこらえた。  うっ、うっ  うめき声。  葉子が、口にトクホンのようなものを——いやサロンパスか。いや口を塞ぐのに、そんなものを貼《は》るのか……!? 混乱する頭を振りながら見やると、葉子が後ろ手に縛られ、座らされている。その顔の下半分が、白い長方形の粘着テープのようなものを貼られて塞がれているのだ。  室内には、もう一つ人影があった。なんだろう、いつ入ったのだろう。こちらへ背中を向けている。 (……!?)  つなぎを着ている。背中に宅配便会社のロゴマーク。でも、どうして、いつの間に 「うっ、うっ」  拘束《こうそく》されている葉子が、入り口から覗く夏子に気づいて、目を見開いた。目で何か訴えた。「入ってくるな」と言ったのか。 「——!」  宅配便のつなぎの男が振り向くのと、夏子が扉の陰に身を隠すのは、同時だった。  ど、どうなっているんだ……!?  部屋の扉に背中を付け、夏子は呼吸の音を気取られないよう抑えるのが精いっぱいだ。  この家は、いったい——  のそり、と立ち上がる気配が背中でする。  やばい。  どこか、隠れる場所——  目で探す。  どこかに隠れないと——! 廊下の向かいに親の寝室と、横の方に、開いたままのガラスドア。 「——」  夏子はとっさにソックスで床を蹴り、スケートのように滑って、開いているガラスドアから物干し台へ飛び出した。  ベランダで家の壁に背をくっつけ、隠れるのと、勉強部屋から何者かが出てきて廊下を見回すのは、また同時だった。 [#改ページ]         8 「——はぁ、はぁっ」  呼吸の音を、出してはいけない——  無理矢理に、口を結んだ。  家の二階の壁に、背中を張り付けているしかない。  ぎしっ  背中に、足音。  誰かが——ガラスドアから、ベランダを覗いた。 (……!)  夏子は、背中をさらに壁に張り付かせる。  それしか、できることがない。  その誰かが、夏子のすぐ横で、廊下からベランダの夜気を見回している。  あの、つなぎの男だろうか……。  多分、あと少し乗り出して——出口から身を乗り出して左右をよく見たら、壁に張り付いた夏子は、簡単に見つけられてしまうだろう。 (……だめだ。見つかる——!)  思わず、息を止めたまま首をすくめる。  だがその時。 「女は、捕らえたか」  廊下の奥から、声がした。 (……!)  さっきの、低い声か。 「——捕らえた」  すぐ横にいる男——宅配業者のつなぎの男と思われる声が、答えた。 「母親は、確保した」 「下も片付いた」  この低い声は——さっきの〈警官〉か……? 「『内《うち》ケバで全員死亡』だ。ふふん」 「この家には、ほかに娘が一人いるはずだ」  すぐ横の声は言うが、 「娘なら、別働隊がすでに確保している」 「——」  うなずく気配がして。ベランダを見回す気配が、ふいに消えた。  つなぎの男が、外を見回すのをやめ、引っ込んだのだ。 「誰か、上にまだいるのか?」  階下の声が訊くが、 「いや。気のせいのようだ」  つなぎの男は、また答える。 「これで、母娘《おやこ》両方、確保したわけたな」 「そうだ」  日本語か——?  ふと、夏子は思った。  この会話の声は……。イントネーションが、少しおかしい。つなぎの男も、警官の制服で下にいる男もだ——  ソックスのまま、物干しのベランダの壁に、背を付けて隠れながら。  夏子は『いったいこの家で、何が起きているのだろう……?』と思った。  この家は——わたしの家は、どうなってしまったのだろう。  父が、勤務先の会社と争うようにして亡《な》くなって——その後、次々にトラブルが起きて、巻き込まれて……。裁判に、嫌がらせに脅迫に、そしてとうとう家に〈殺し屋〉が押しかけてきた—— 〈殺し屋〉……?  思わず、頭を振る。 (——そんな)  唇を噛む。  そんな、馬鹿な……!  そんな種類の人間たちが、この世に、|本当に存在《ヽヽヽヽヽ》したというのか——!?  わたしたちの家が、そいつらに襲われたというのか。 「——」  嫌だ。  夏子は、ベージュのセーラーにスカーフを解いただけの胸を、呼吸で上下させた。自分の汗の臭いが襟《えり》の隙間からしてくるみたいだ。  信じたくない……。 (嫌だ)  でも、夏子のすぐ背後の廊下でしゃべっている男は、実際そこに存在していた。  殺し屋。正体不明の複数の男たち。口にする言葉は、誰かに目撃された時、正体を知られないようにわざと母国語でない日本語を使っているのか。  あるいは、『雇い主』の指示か——  つなぎの男は、夏子の生みの親・葉子を縛り上げて絨緞《じゅうたん》に転がし、夏子にも分かる日本語で「ほかに娘が一人いるはずだ」と発言した。 「この母親は、ここで始末するか?」 「いや、連れていく」階下の警官の声は言う。「娘と一緒に『心中』させる。別の場所だ」 「時間はない」 「分かっている。射殺斑の男が逮捕され、予定が大幅に狂っているが、今夜中に始末はつけなくてはならん。その代わり報酬《ほうしゅう》は予定どおりだ」 「——いいだろう」  つなぎの男の声が、うなずく。 「撤収《てっしゅう》だ」  男たちがうなずき合うのが、背中で分かった。  いったい、何を話しているのだろう—— (……)  夏子は、呼吸の音を聞かれはしないか——? とどきどきしながら、背中を壁に付けて様子をうかがっていた。  あいつらは、何を話しているんだ。  内ゲバ……?  全員死亡……?  女は確保した……?  女って、うちの母親のことか……? 一応、女だけど…… 「——」  そして、  この家には、ほかに娘が一人いるはずだ……!  宅配便のつなぎの男は、そう言った。  娘——わたしのことだ。 (でも)  もう、確保した……?  どういう意味だろう。  動けぬまま、何分経っただろうか。  ふいに物干しからは死角の玄関で物音がすると、人影が三つ、こちらに背を向けて現れた。 (……!?)  玄関を、出ていったのだ。  見ると門扉の外に、いつの間にか角張った深緑のトラックが止まって、オレンジのハザード・ランプを点滅させている。  宅配便のトラックだ。  出てきた人影三つは、いずれも宅配業者のつなぎを着ている。  なんだ……。夏子は訝《いぶか》る。  いかつい体格は、先ほどの偽《にせ》警官だ。警官の制服は、どうしたのだろう。着替えたのだろうか……?  さらに、三つの人影は、長い大きな段ボールを横向きに抱えている。 「——!」  あれは。 (あれは、なんだろう)  見ているうちに宅配便のトラックは、長い段ボールを荷台に呑み込み、三つの人影を乗せ、ウインカーを点滅させる。 「……」  夏子は、肩で息をすると、そうっと振り向いて、開いたままのガラスドアを見やった。  物音はしない。  脚を踏み出そうとすると。 (な、何……?)  引きつって、脚が動かない。  まるで制服のスカートの下の脚が、棒みたいだ。それでも、苦労して、物干しのベランダから二階の廊下を覗いた。  人の気配はしない。  廊下も、家の中も静まり返っていて——そうしていると背中から、トラックのディーゼルエンジンが門の前を離れていく響き。  ドルルルル—— 「——ど」  どうしよう。  何が起きたんだろう。  まだ夏子は、自問を繰り返していた。  自分は、どうすれば  床を這うようにして、勉強部屋を覗いた。 (——)  誰もいない。  葉子の姿はない。  メンソールの煙草の匂いだけだ。  見ると、慌てて消したような机の上の吸《す》い殻《がら》。  見回す。  後ろも見る。二階の廊下にも、誰もいない。  這うように廊下を進んで、ゆっくりと、階段を下りにかかった。  しかし、 「う」  途中で、足が止まってしまう。 「い——嫌」  怖くて、下へおりられない。  階下には、殺された男たちの死骸《しがい》が、たくさん転がっているのだ。 「はぁ、はぁ——」  葉子は、どこだろう。  家の中には、いないのだろうか。  まさか—— (まさか)  今の、あの段ボール……。  男たちは『連れていく』と言っていた。あれは、段ボールは、葉子を中に詰めて、運んでいったんだろうか——  いったい、どこへ  ——『娘と一緒に『心中』させる。別の場所だ』  夏子には、もう男たちのすることが想像できない。 「た」 「——助けて」  思わず、つぶやいていた。 「誰か、助けて」  すると、 「はい」ふいに後ろで、誰かが返事をした。 (——!?)  驚いて振り向くと。 「あ」  夏子は、絶句した。その顔に向かって、銀の産毛の猫娘が言った。 「呼びましたか、ナツコ」 [#挿絵(img/01_119.jpg)]   第二章 三つ編みのスーパーガール         1 「呼びましたか、ナツコ」 「——!?」  ふいに、頭の後ろで声がした。  びくっ、として振り向くと。  目の高さに、膝を抱えるようにして、猫少女がベランダの宙に浮いていた。 「……な」  やっぱりこいつ——現実にいるんだ……。  プルプルと三つ編みの頭を振り、頬をぺちぺちはたいて自分を正気づかせてから、夏子は言った。 「あんた、やっぱり、いたの」現実に——  あなたはやっぱり現実に存在したのか、という意味で、夏子は言ったのだが。  なぜだか宙に浮いた猫娘は、その言葉にびくっとしたように、手を振った。 「い、いえ、いません」 「え」 「い、いませんでした。今、来たんです」 「え?」 「今、来たんです。呼ばれたから、今」  話が、何か噛み合わない。 「何言ってるの、あんた」  ひとが、大変なときなんだよ。  夏子が睨みつけると。  どうしたのだろう——?  急に猫娘は、その造りものだとしたら相当な匠《たくみ》の業《わざ》なんじゃないかと思える、形のよい唇を結んで、悲しそうな(そう見える)表情になった。 「ご——ごめんなさい」 「え」 「あの」 「え?」 「あの、ナツコ。わたし嘘を言いました。今」 「え?」  また、わけが分からない。 「本当は——」  猫娘は、唇を噛みしめるようにして言う。 「本当は、ずっと見ていました。そこで」 「ずっと……って」  ずっと、見ていた——!? (見ていた——って)  何を。  まさか—— 「まさか、あんた」 「わ、わたし」  手を挙げて、夏子の感情を抑えるように猫少女——ウィノアといったか——は言う。 「わたしは、あなた——つまりパートナー候補者以外の、現地住民に、姿を見られるわけにはいかないのです」 「——」 「ごめんなさい、正直に言います。本当は、すぐそこで」  指で、猫少女は電柱の上辺りを指す。 「姿を隠して、ずっと見ていたのです。殺戮《さつりく》が——」  ひっく、とウィノアはなぜかすすり上げる。 「?」 「殺数が、行われた瞬間もです」 「——?」  なんだと。  この宇宙人(宇宙人だよな)——空も飛べるし、きっと何か凄い力を持っているはずだろうけど。 (こいつ……)  でもこいつ。さっきの正体不明の殺し屋の襲撃を、電柱の上に浮かんで姿を隠して、ただ眺めていたというのか……!?  目を剥《む》く夏子を、 「あの。わたし」  銀の産毛の手で押さえるように、ウィノアは言った。 「あなた以外のこの星の人に、姿を見られてはいけないのです。そういう規則《ヽヽ》で——」  言いながら、ひっく、とすすり上げた。 「あの、自分でも、なんて言っていいか分からなくて、でも規則で……。どうしていいか、わたし」 「見られたら、何か減るのかよっ」 「わ、わたし送還《そうかん》されます」 「え?」 「『規定抵触』で、資格を取り消されて、ただちに母星へ送還されるんです。せっかく——」 「——」 「せっかく、ボランティアしてひとの役に立とうと思って、いろいろ試験や手続きをクリアして、この星までやっと出てこられたのに——」 「……」 「せっかく、ナツコ、あなたにも出会えたのに」 「ひとの役に——って。よく言うよ」  夏子はため息をつく。  この猫宇宙人——一緒にいると、なんか凄くいらつくんだよな……。  でも夏子は、ウィノア・イプロノブにはなんの遠慮《えんりょ》もなく、思ったことやものが言えていることに、まだ気づいていない。  気づくのは、ずっとあとのことだ。 「規則なんてね——」夏子は言った。「だいたい、上のほうの誰かが都合よく楽をするために、勝手に決められているのよ。そんなもの破ったって——」 「いえ、わたしたちの、この規則は——」  もじもじしながら猫娘は言う。 「もう、何万公転周期も守られてきたのです。規則には、理由があって——感情に流された介入は、下手をすればその星の文明や生態系を破壊してしまう。だから、感情にまかせて自らの姿をさらし、自らの手で紛争に介入してはいけない」 「……」 「とても、辛いことがあるよって——先輩たちにも言われていたんです。派遣先の星で、いいパートナーが見つからないと、大変だよって」 「——」 「うっかり姿を見せてしまって、現地人たちに過度の期待を抱かせてしまった結果、悲惨なことに——成り行きで、何も悪いことをしていない怪獣《かいじゅう》を、怪獣だというだけで毎週一匹殺さなければならなくなった悲惨なボランティアもいたそうです」 「——」 「一年に五十匹も怪獣を殺しまくると、もう自分が嫌になって、何をしているのか、良いことと悪いことの区別もつかなくなるって」 「〈救助〉なら、いいんでしょ。介入」 「やむを得ない〈救助〉なら、いいんですけど——それでもこの姿は、見られてはいけません。さっきの学校では、外だったので、超音速で駆けつけて空中であなたをさらうことができました。誰にも気づかれずに、済みました。でも、この強度の低い、原始的木造住居でそれをやったら。きっと住居ごと粉々に破壊して、ナツコ、あなたのことも殺してしまったでしょう。どうしても、できませんでした」 「——」  ひっく、とまた猫少女はすすり上げた。 「わたし、さっきは、どうしていいか分からなくて——」  夏子が見ていると。  猫少女は目の前で、ひっく、ひっくとすすり泣き始めた。 「目の前で、殺戮が行われているというのに。ナツコが、お母さんを殺戮者から護ろうとして、階段で身体を張って通せんぼして、生命をかけてたたかおうとしていたというのに。でも規則を破れは強制送還だし!」 「おい」  おいお前、また何か勘違いして——  だいたい、宇宙人って泣くのか……?  泣くのか。そうか。  でも、さっきとずいぶん、印象が違わないか? [#挿絵(img/01_125.jpg)] 「——あんたさ」  夏子は、すすり上げている猫少女に訊いた。 「あんた、さっきと、ずいぶん違うじゃない? さっきは結構、威勢よかったじゃない。急に、どうしちゃったのよ」  学校の裏庭で初めて会った時には、この猫娘は結構、悠々《ゆうゆう》として、空を飛ばしてみせたり、わたしに「相棒になれ」とか押しつけがましく言ったりしていたじゃないか……?  すると、 「先生が——」 「え?」 「先生が、わたしの治療《ちりょう》のためには、ひとの役に立つボランティアをしたらいいだろうって——そう言ってくれたんです」 「は?」 「確かに、ひとのためにしてるって思うと、不思議に気持ちが、こう大きくなって、前向きに大胆《だいたん》にもなれるし、何か自分が別の人格になれたみたいで、さっきは凄く、嬉しかったんです。苦労して、この星へ来てよかった——って」 「……」  何を言っているんだ……?  わけが分からない。 「でも。ひっく」 「……」 「規則を守りながらひとの役に立つ——っていうことが、こんなに難しくて、辛いなんて——! ひっく、ひっく」 「な、泣くなよ」 「ひっく」 「泣くなよっ、たら」  わたしは、何をやっているんだ。  夏子は思った。  もう、わけが分からない。  こんな大変なときに、なんで泣いている宇宙人なんか、慰《なぐさ》めてやらなきゃいけないんだ——!? 「泣くなよ。じゃ、あんたが、姿を見られずに、この星で力を発揮するにはどうしたらいいのよっ」  夏子はつい、訊いてやってしまった。 「それは」  猫娘が、ぱっと切れ長の目を開けて、夏子を見た。 「それはナツコ、あなたが——」  だがウィノアが言いかけた時。  ファンファンファン  ファンファン  サイレンの響きが、右手の通りの方角から、夜気を伝わってきた。  物干しから見下ろすと。赤いパトライトが路地を曲がって、急速にこちらへ近づいてくる。 「——あ」  敏感に反応したように、猫少女は、家の門の前に急停止するパトカーを見た。 「誰か、来ます」 「え」  シュッ、と空気を切るような響きがしたと思うと。 (……!?)  白銀の猫少女の姿は、もうそこになかった。 [#改ページ]         2  猫娘が、シュッと空気を切る音を立てて目の前から消えてしまうと。  急に、言い負かす相手の見えなくなった夏子は、なんだか凄く独《ひと》りにされた気がした。  入れ替わりに、玄関前につけたパトカーから、ばたんっと人影が降りてくる。  制帽を被っている。警官だろう。 (本物——なのかな)  肩で息をしながら、夏子はまた緊張する。パトカーはライトを回転させたままだ。物干しの下へ、警官らしい影が見えなくなって数秒して、ドンドンと玄関の扉の叩かれる響き。 「戸田さーん」  何か、甲高く聞こえる男の声だ。若い警官だろうか。 「戸田さーん、戸田さーん。もしもーし」  さっきの巡査とも、殺し屋たちとも声の感じは違う。  殺気などない。真面目そうだ。 「もしも——し、もしもーし」  本物、なのだろう……。  夏子は思った。殺し屋が、パトカーまで本物そっくりに用意して、近所にまで聞こえるあんな声で「もしもーし」なんて言うわけがない。  そう思ったが。  夏子は、階下へは下りていけない。死体がたくさん転がっている。怖い。冗談じゃ、ない……!  ドンドン  ドンドンドン 「もしもーし。戸田さん、いますか。どうしましたか、もしもーし」  あの警官——  インターホンがあるじゃないか、どうして叩いて叫ぶんだよ。  おそらく銃声を聞きつけた近所の誰かが、警察に通報したのだ。  あれだけ殺し屋が、遠慮もなく撃ったのだ。  内ゲバで同士討ちに見せかける、みたいに言っていた。映画に出てくるような音のしない銃を使わなかったのは、つまり——浅田たちが同士討ちをして殺し合って死んだように見せかけて、それを近所の通報で発見させるように仕向けたわけか。  しかし、 「戸田さーん、どうしました、戸田さーん、もしもーし」  若い警官は、近所中に聞こえるような声で、扉を叩きながら叫び続けた。  何やってるんだ、いつまでも。  こっちは、葉子がさらわれていったのだ。そのことを、警察に言わなくてはいけない。  わたしは、動けないんだよ。早く中まで、入ってきてくれよ——! 「戸田さーん、戸田さーん」  何やってるんだよ……!  夏子は、ふと脈絡もなく、北海道の自然公園を山歩きする人たちの話を思い出す。熊と出合わぬように、土地の人たちは山を歩く時にはわざと大きな音を出して、大声で話しながら進むのだという。熊が人間の物音や声を聞き、向こうから逃げてくれるからだという。  夏子は、若い警官が、まるで「警察が来ましたよ——、殺し屋がまだ中にいるなら、さっさと裏から逃げてくださーい、間違っても俺の前に出てこないでくださーい」と叫んでいるような気がした。 「ええい、もう」  夏子は、苦労してスカートの脚を踏み出すと、物干しの手すりにたどり着いて、下を見て呼んだ。 「あのう」  でもその時には、さすがの警官も、灯のついている家の中から何も返答がないからか、玄関扉を開けて入ってきた。夏子が呼びかけるのと、入れ違いだった。 (ありゃ、中に入っちゃった)  同時に、 「ぎゃーっ」  若い警官が悲鳴を上げるのが、夜の空気を伝わってきた。 「それで——」  それからの三十分は、慌ただしく過ぎた。 「警官の制服を着た殺し屋というのが入ってきて、一階にいた労働団体の活動家十名を次々と射殺。その後、宅配業者の制服に着替えて、あんたのお母さんを段ボールに押し込んで、トラックで逃げた——と?」 「そうですっ」  夏子は、うんざりしながらメモを取る刑事にうなずく。 「何回、同じことを言わせるんですか」  あれから、若い警官は表のパトカーへ逃げ帰ってしまい、夏子が物干しから何度呼びかけても、応援の三台が到着するまで絶対に出てこようとしなかった。  私服の刑事らしい男たちが到着すると、「現場は、しっかり保存してありますっ」と敬礼して報告をした。  夏子が二階の物干しから『救出』されたのは、それからさらに十分後だった。  黄色いテープでたちまちべたべたと囲まれた家を、赤いライトのパトカーが取り囲み、やがて野次馬まで押し寄せてきた。 「ですから、うちの母親が、さらわれていったんですっ」  殺し屋は、今夜中に始末をつける、どこかほかの場所で『心中』させる、と言った。  警察には、すぐ動いてもらわないと——いくら気に食わなくても、葉子はたった一人の肉親だ。助けないと……!  だが、 「あのね、十人がピストルで死んでる事件なんだよ。大事件で、こっちも大変なんだよ」  四十代の刑事は、興奮した様子で言い返した。 「いい加減なことを言うのはやめなさい」 「いい加減な——って」 「だいたい警官の制服を着た殺し屋——!? 日本人じゃない——!? 宅配便の制服に着替えてトラックで逃げた——!? そんな作り話めいた」  作り話じゃ、ないよ……!  むっとする夏子の横から、 「班長」  若い刑事が、白手袋をはめた格好でやってくると、報告した。 「やはり、活動家のうち二名の手から、硝煙反応《しょうえんはんのう》です。あそこに倒れている男と、こっちの男が、こう撃ち合った。メンバーたちは次々に巻き添えを食って死んで、最後にリーダー格の二人で対決して撃ち合って、双方死んだ。そういうところでしょう」  すると、 「うむ、そういうところだな」 「だからそれは——」  夏子は、何度も繰り返した説明をまたしようとしたが、 「あのね、ここにある事実は、十人の男がピストルで撃ち合って死んだ、それだけなの。君の話は、君が頭で考えただけのことかもしれない。なんの根拠も証拠もない」  家の中に押しかけてきた警察の人間たち。  刑事や警備の巡査《じゅんさ》、青い作業服の鑑識課員たちなどで、リビングから玄関までごった返していた。 「そんな」  夏子は、ムッとする。  自分が本当に見たことを話しているのに、どうして信じてくれないのだ。 「あの、宅配のトラックのことを、近所に訊いてもらえれば——」  そうだ。  あのトラックは、家の前に堂々と、かなりの時間にわたって停まっていたのだ。  すると、 「今日の夜七時から八時までの間に、三台の宅配トラックがこの辺りを通過しています」  別の刑事がやって来て、メモを見て報告した。 「この時間帯は、配達の希望が集中するので、夜ですが宅配便の動きはむしろ活発だそうです」 「ふむ、そんなとこだな」 「あの、わたしの母親がさらわれて——あの、ひょっとしたら」  ふと、夏子は気づいた。  ——『別働隊が確保した』  なんだったんだ。さっきのあの殺し屋の言葉——  ——『娘は、別働隊が確保した』  そうだ。  ひょっとしたら……。 「あの、ひょっとしたら。わたしに間違われて、誰か別の子が、さらわれているかもしれないわっ」 「うるさいな」  中年刑事は取り合わずに、 「家出人の捜索願いなら、業務時間中に署の担当窓口に行って相談しなさい」 「え——」  夏子は、肩を上下させた。  なんだって……? 「あの、わたしの——」 「うるさい」  警察は、まるで頼りにならない。  それは、分かっていたことだ。  父親の『事故』の時も、事故と決めつけて、警察は何もしてくれなかった。  こうなったら……。 「——もう、いいです」  夏子は鼻から息を吐くと、刑事に背を向けた。  自分で、捜すしかない。こうなったら (——あいつだ)  あいつだ。  あいつに——頼むしかない。  猫娘。  どこかにいる誰かの悲鳴が、聞き取れるとか言っていた。  声をたどって、そこへ行ける、とも——  ところが、 「こらっ、どこへ行くつもりだ」  玄関へ行こうとする夏子を、中年刑事が引き留《とど》めた。 「勝手に出てはいかん」 「いかん——って、わたし、母親を捜しにいくんです!」 「馬鹿なことを言うな」 「そうだ駄目だ」 「止まれっ」  たちまち、二人の若い刑事が白手袋の手で、玄関への廊下を通せんぼした。 「どこへも行ってはいかん」 「どこへも——って」  夏子は目を剥く。 「どこへ行こうと、わたしの——」  しかし、 「分かっていないようだな」  若い刑事は、通せんぼしながら言う。 「君の|疑い《ヽヽ》は、まだ全然、晴れていないんだよ」 「は……!?」  疑い……?  どういうことだ。 「戸田夏子十七歳。君はこの事件の重要参考人だ」  中年刑事が、背中から言った。 「えぇっ?」  夏子は、わけが分からない。  母親を——葉子を、早く捜しにいかなければならないのに——! (早くしないと——)  あの猫娘は、夏子以外の人間には姿を見せられない、とか言っていた。  規則を守らないと送還されるから、とか——  あいつに、母親捜しを頼むためには。 (どこか人のいない場所を見つけて、あいつを呼ばないと……!)  しかし、 「死体が十も転がっていて、そのそばに君がいた」  中年刑事は言った。 「しかも、銃声の通報を受けたパトカーが迅速《じんそく》に駆けつけると、君は二階の物干しからよその家へ飛び移って逃げようとしていた」 「ということはつまり——」若い刑事も言った。 「君が労働団体活動家十名を殺害した、凶悪犯である可能性も否定てきない」 「ど——」  夏子は、あまりのことに声が続かない。 「どこを、どうすれはそんな無茶苦茶な言いがかりが——」 「無茶苦茶ではない」 「そうだ。最近の女子高生は、実の父親を刺したり実の母親に毒を盛ったり、とんでもないことをやるからな。家に入り込んでいた労働団体の連中を、ピストルで皆殺しにするくらいやりかねん」 「そっ、そんな……!」  夏子はもう一度、警官の扮装をした殺し屋が、どうやって相打ちに見せかけたのかを説明したが、 「そら見ろ。死体にピストルを持たせて撃って、手に硝煙反応をつけるやり方なんて、普通の女子高生が知っているわけがない」 「君はインターネットを使って、ピストルを仕入れると同時に、撃ち方や内ゲバに見せかける手口なども研究したな」 「よし、この家のパソコンを、ただちに押収《おうしゅう》しろ」 「はっ」 「ちょ、ちょっと——」 「この女子高生を、大量殺人事件の重要参考人として、任意で署へ同行させろ」 「はっ」  警察署へ連れていかれる……?  冗談じゃない。 「あのわたし、母を捜さないと」 「駄目だ。戸田夏子十七歳、君には大量殺人事件の重要参考人として、任意で署へ同行してもらう」 「に、任意でしょ」  夏子は三つ編みの頭を振る。 「いやよ」 「任意同行だ。来なさい」 「だから、嫌よ」 「任意同行に応じないなら、任意同行に応じるまで、要請するぞ。来なさい」 「——」 「来ないと、罪が重くなるぞ」         3 「任意だ」「任意だ」と言いながら、若い刑事は夏子を無理矢理、後ろから小突くようにして、玄関前のパトカーへ連れていく。  すてに、野次馬が人垣《ひとがき》を作っている。  救急車まで何台も出動してきている。赤いライトの照り返し。 (ウィノア)  夏子は、周囲を見回す。  あいつは、どこかて自分を見ている——見ているに、違いない。  出てこい——  夏子は願った。わたしを、ここから連れ出して。飛ぶのは気持ち悪いけど、この際、仕方ないわ。我慢するから——  しかし。 (……駄目か)  夏子以外の現地人——地球人に、姿を見られるわけにいかない、と猫娘は言っていた。  この人垣では、出てこられるわけがない。 〈規則〉を守ろうとすれば—— 「なんで」  夏子はつぶやく。 「なんで馬鹿正直に——」  見られたら〈規則〉違反で、送還されてしまう、とか言うが 「こら。今なんと言った。俺のことを馬鹿だと!?」  興奮した若い刑事が、夏子を人垣から見えないように、後ろから蹴飛《けと》ばした。 「なっ、何するのよっ」 「いいから早く乗れっ、手錠《てじょう》かけるぞ、こら」  さらに三十分後。  この〈事件〉を管轄《かんかつ》することになったらしい街中の大きな警察署へ、夏子は連れ込まれていた。  蛍光灯がまぶしいくらいに照らす警察署の二階は、テレビに中継されるような大事件の処理にかかわれるのが、ひょっとしたら嬉しいのか——? と思えるような、賑《にぎ》やかなざわめきだった。 「いつもはね——」  夏子を預かった私服の婦警は、短いボブにした頭で、署の二階を見回した。  高校の教室を二つ繋ぎ合わせたくらいの広いワンフロアに、天井から『防犯係』『少年係』『交通係』なとさまざまなプラスチックの札が下げられ、ずらりと並ぶ机がセクションごとに分けられているのを示している。  夏子は、「事情聴取が始まるまでここにいるように」と指示され、携帯などを取り上げられたうえ、その婦警と差し向かいて座らされたのだった。 「ここではいつも、やりきれない連中を相手にして、世の中から認められない、やりきれない仕事が続くのよ。毎日、毎日、えんえんとね」  夏子を『連行』した若い刑事は、「俺は特捜本部の立ち上げ準備があるから」と嬉しそうに興奮した顔で言うと、夏子の身柄をその若い婦警に預け、さっさとどこかへ行ってしまった。 「——」  夏子は、ざわざわと落ち着かない、さまざまな人間でいっぱいのフロアを「こんなことしている場合じゃない」と思いながら、見渡す。  それに、なんだここの署員の連中——  警察署の人々は。通りかかるどの署員も「大変だ」「大変だ」と口では繰り返しながら、嬉しそうに興奮していて夏子は、「はしゃいでいるんじゃないか?」とさえ思った。 「それが」  二十代後半と思える婦警は、息をつき、ボブカットの頭を振る。 「ここの所轄区域で、労働団体の幹部がピストルで一度に十人も惨殺《ざんさつ》されるという、凶悪大事件が起きるなんて」 「——」 「ああ、いい刺激」 「——?」 「こんな大事件、わくわくするわ」  まるで他人事のように警官は言い、でも言葉とは裏腹に、やりきれなさそうな表情で頭を振った。  警察の組織では、情報は早いらしい。すでに、夏子——女子高生が、一人だけ惨殺事件現場に生き残っていて、内ゲバに見せかける工作をしてから物干し伝いに逃げようとするところを、優秀なパトカー警邏《けいら》係によって身柄《みがら》を押さえられ、署へ重要参考人として連れてこられた——という『事実』が、署員たちに知れ渡っているようだった。  そればかりか、夏子が「警官に化けた殺し屋の仕業だ」と主張したことまで、婦警は知っていた。 「私は、少年係だから。これまでいろいろと危ない奴を見てきたから。あなたが十人殺したのかどうかなんて、見ればだいたい見当はつくけれど」 「——」 「でも。あなた——〈犯人〉だ、ということにされるわね。たぶん」  婦警はまた、他人事のように言う。 「——えっ」  犯人《ヽヽ》……?  夏子は、婦警の言うことが分からない。  犯人って—— (どういうことだ……?)  婦警は、少年係を担当しているから。だからとんでもないことをやりそうな奴は、見れば分かる——夏子はそういう種類の少女たちとは違う、という意味のことを口にした端《はし》から、でも「あなたは犯人にされる」と言う。  犯人……? ひょっとして、さっき刑事が「可能性として否定できない」とか口にしていた、「十人を惨殺した凶悪犯人」のことか……!?  そんな。  わたしがか——? (冗談じゃ……ない)  だが婦警は、ボブヘアを耳の辺りでかき上げながら、 「だってね。みんなが助かるのよ、あなたを十人惨殺の〈犯人〉にすると」 「——えっ!?」  なんだって。  驚く夏子に、 「あのね」  婦警は目を合わようとせず、向こうの方を見たまま言う。 「せっかく十人も死んだのに。内ゲバで相打ちということにすると、『被疑者全員死亡で不起訴』でしょ。警察も検察も、なんの成績にもならないわ」 「せ——」  成績……?  なんだ、それは。  しかし、 「あのね」婦警は続ける。「警察は、犯人検挙して証拠固めて自白取って送検してなんぼ、検察は立件して裁判にかけて有罪にして、刑務所へぶち込んでなんぼなの。『被疑者死亡・不起訴』じゃ、誰の成績にもならない。現場の後片付けだけさせられて、警察はなんの成績にもならず、くたびれるだけなの。かといって、あなたの証言どおりに『殺し屋がやった』ということにすると、犯人なんか絶対捕まりっこないし。そうしたら『十人も殺されたのに犯人捕まえられない無能な警察』って世間から非難される。それだけは、何があっても避けなければいけない」 「——」 「でも」 「?」 「でもね、あなたが〈犯人〉ということになると。警察は、大量殺人事件の凶悪犯を迅速に逮捕できるわけだし、検察は犯人を立件して、あなた未成年だけと、『稀《まれ》にみる凶悪犯』ってことで普通の裁判にかけて、かなりの有罪を取って成績挙げられるし」 「——」 「いざ裁判ってことになれば。テレビで大々的に報道されるだろうから、名前を売りたい全国の弁護士たちが殺到して、大弁護団を結成して自分たちの宣伝の場として大いに活用ができるし」 「——」 「ついでに、テレビも視聴率取れるし。経済効果、じゃないけれど、つまりあれね。『業界の活性化』ってやつ……? あなた一人が〈犯人〉になってくれるだけで、大勢の人たちが助かるのよ。だから今、上では——」  婦警は、ちらと天井を見やった。 「——上では今、その相談を偉いおじさんたちがみんなでしているわ」 (そんな……)  夏子は、肩で息をした。  任意だっていうから、我慢して、ついてきてやれば……。  こんなことに、付き合っている場合では—— 「い——いい加減にしてください、冗談も」 「冗談で、こんなこと言わないわよ」 「——」 「いい? 戸田夏子十七歳。あなたに、労働団体の暑苦しい活動家十人を惨殺する動機があったのかどうか分からないし、駆けつけた刑事に作り話の大嘘を話さなきやいけない必然性があったとも思えないけれど。でもね、『警官に化けた殺し屋』なんて、この世に存在しないの。存在してはいけないの。だから、存在しないの。上は——」  婦警は、またちらと、天井を見やった。上のフロアにも、署の組織があるのだろうか。  特捜本部、とかいうやつか……? 「上は今、鑑識の採取してきた『証拠』をパズルのように組み合わせて、あなたが現場で、どうやって十人を惨殺したのか、つじつまの合うストーリーをみんなで一生懸命、考えているわ」 「——あの」 「何が正しいか、じゃないの。早く終わらせて成績を挙げる。この業界、それだけよ」 「——」  絶句する夏子。  いったい、どうなっているんだ  その夏子から目をそらしたまま、婦警は言う。 「この仕事してるとね」 「——」 「時々、わけの分からない波のようなものに呑まれていく人って、いるのよ。可哀想《かわいそう》なんだけど——でも、私がそれを身体《からだ》を張ってまで助けてあげるかっていうと、そうは思わない。私も、生活、かかっているしね。最近分かったのよ。そういう波に呑まれちゃう人って、運が悪いんだって。そういう人は、あきらめるしかないの」  夏子は息を呑んだ。  いったい、どうなっているんだ……。  状況が、心に受け入れられない。  家の中で、信じられないような惨殺事件が起きて。殺し屋に、母親がさらわれて……!  でも、からくも生き残った自分が、被害者のはずなのにその惨殺犯にされる……? 警察は、そのほうが簡単に成績になるから、殺し屋の存在なんかないことにして、わたしを犯人にする——!?  そんなのって、ありか。  世の中って、どうなっているんだ……!? 「——」  ざわざわざわ  見回すと。  警察署の二階フロアには、襟に階級章をつけた制服督官たちが、大勢立ち働いている。  小さな事件は、日常的に起き続けているのだろう。繁華街から引っ張ってこられたのか、頭を真っ赤に染め、ろれつの回らない様子の革ジャンの若い男や、酒の臭いをぷんぷんさせる乱れた身なりの男、地肌が見えないほど顔を塗りたくった少女の二人組は「うるせぇなぁっ」と係官の腕を振りほどこうとしている。  犯人……。 (わたしを、|犯人にする《ヽヽヽヽヽ》——って……。どうして? 冗談じゃない)  でも、 「上の特捜本部が、あなたが十人をピストルで惨殺した犯人だ、という|ストーリー《ヽヽヽヽヽ》を固めたら。今度はそのストーリーに基づいて、あなたは参考人としての『事情聴取』にかけられる。あっちの部屋で」  婦警は、目でフロアの一方を見やった。 〈取調室〉 「——」 「あなたがしゃべったことのうち、ストーリーに合う部分が書き残され、合わないところは無視されて捨てられ、足りないところは誘導されて『思い出す』ようにさせられる。あなたは、ま、もって一晩かしらね。『自白』を完了して、調書に拇印《ぼいん》を押すわ。それでめでたく逮捕。日本初の、〈女子高生殺人鬼〉の誕生ね」 「——」  冗談じゃない……! 「心配しなくていいわよ」  婦警は、髪をかき上げて言う。 「そのうち〈戸田夏子 大弁護団〉が結成されて、いい精神科のお医者さんを連れてくるわ。あなたが自宅で半年くらい、たとえば居座った労働団体活動家の男たちに毎晩××され続けて、心神耗弱《しんしんこうじゃく》状態に陥っていたとか——まあ適当に、検察側に対抗するストーリーを作ってくれるでしょ。運がよけれは、死刑にはならないわ」  冗談じゃない。  葉子を、捜さなくてはいけないのに  夏子は、騒々しいフロアを見回す。出口は——?  まだ手錠とか、かけられているわけじゃない。自分は任意で、ここにいるだけだ——  だが、 「逃がさないわよ」  婦警はわざと向こうを向いて、夏子と目を合わさずに言った。 「未成年の参考人を、鍵のかかる部屋に監禁したりすると、あとで弁護団が問題にするの。だから私が見張ってるわけ。逃がさないわよ戸田夏子。あなたは私の『成績』でもあるんだから」 「じょ——」  夏子が、「冗談じゃないわ」と抗議しかけた時。 「冗談じゃないわよっ」  もっと大きな声が、フロアの入り口で上がった。 「いい加減にしなさいよ、うざいわねっ」 [#改ページ]         4 「冗談じゃないわよ、うざいわねっ」  なんだ。  誰の声だろう——?  この、聞き覚えのある高飛車な……。  そう思って、振り向くと。 (——!?)  二階のフロアの入り口に、見覚えのある集団がいる。  夏子は、息を呑む。  集団——グループ。 (なんだ?)  そうだ——自分は夕方、校門を出た先の商店街にある書店の前で、たむろしている|あいつら《ヽヽヽヽ》グループを目にして、避けたばかりだ……。 (——でも)  でもどうして、あいつらがここにいるんだ——?  少女たちの集団は、揃って夏子と同じ制服。ベージュ色の上着に、青いスカーフのセーラーだ。  その先頭で、ミニ丈のスカートの腰に両手を置き、堂々と声を張り上げているのは—— 「あたしに触るんじゃないわよ、ださいわねっ」  背の高い美少女が、制止しようとする若い巡査の手を払いのけると、身長の半分くらいある脚を片方上げてベンチ式の腰掛けをだん、と踏みつけた。 (英……?)  英理香だ。  そして、その取り巻きの連中……。  警察署の、少年係や防犯係という部署の空気には、まるで場違いな華やかさだ。 (どうして、あいつ——いやあいつらが、ここにいるんだ……?)  しかも全員、まだ制服——いや、渋谷や自由が丘なんかでは、私服に着替えるより青香の制服で街を歩いていたほうが、目立つし気持ちがいい、とかいうやつもいるけど……。  しかしあいつら、何かやって補導でもされたのか。そうでなければ、制服巡査に先導されて、ここへ連れてこられるわけがない。 「——」  夏子は、見ていてあっけに取られた。  理香を含め、グループは全部で七人いる。いずれも、雑誌の読者モデルをしているといううわさどおり派手な印象だ。それが、若い男の巡査二名に前後を挟まれ、この警察署の二階へ『連行』されてきたのだ。  ところが、 「総務課長、出てきなさいっ。総務課長っ」  理香は、「静かにしろ」と制止する巡査を、さらさらの長い髪を振り乱して睨み付けると、さらに声を張り上げてフロアの奥を呼んだのだ。 「ここの署の総務課長! いるんでしょ。出てきなさい、出てこないと、大変なことになるわよっ」  総務課長、出てこい……?  夏子は、いったい英理香は何を叫んでいるのだろう、と思った。  差し向かいに掛けて夏子を監視している私服の婦警も、『なんだあれは』という視線を向ける。  酔っ払いや薬物中毒者や、暴力を働いた非行少年などを見慣れているはずの少年係の婦警も、顔には出さないが驚いているようだ。  向かいの列のデスクにいる若い制服の婦警が、「布施《ふせ》さん」と頼るように小声で呼んできたが、私服——スーツ姿の婦警は、うるさそうに頭を振る。 「駄目よ。今この子から、目が離せないの」 「ですけど」 「悪いけど、あなた総務係長、呼んできて」 「え」 「総務課長は、どうせ特捜の世話で手を離せないでしょ。係長なら、なんとかなるから。あれ、うるさくてかなわないわ」  布施、と呼ばれた私服の婦警が目で促《うなが》すと、若い婦警は「は、はい」とうなずいて席を立った。  だが、若い婦警が呼びにいくまでもなく、 「なんだね、なんだね」  フロアの奥から、五十代と思えるすだれ頭の男が、赤ら顔をハンカチで拭《ふ》きながら歩み出てきた。  お腹《なか》の出た、ワイシャツ姿。管理職だろうか。 「はっ」  制服の若い巡査が敬礼し、「実は」と報告する。 「自由が丘のカラオケボックスで、女子高生が集団で喫煙《きつえん》している、との通報が市民からありまして。急行して補導してきました」 「ふざけるんじゃない」  すぐに理香が、ぴしゃりと遮った。 「証拠はあるのっ」 「君らの個室は、煙だらけだったじゃないかっ」  巡査は言うが、 「吸ってるところを現認《げんにん》したわけ?」  理香は、現認、などという言葉で切り返す。 「それは——しかし、明らかだ。他の利用客からの通報もある。君らの個室の灰皿も、吸《す》い殻《がら》だらけだっただろう」 「前の客の残していったものよ。ひどいわねっ、あんたたちは証拠もなしに、誰かの通報だけで人を捕まえるわけ。通報があったら、証拠もなくても殺人犯にもしちゃうわけっ?」 「おい、おい」  五十代のすだれ頭の男が、汗を拭きながら理香を制止した。 「やめないかっ。いいか。お前たちが高校生のくせに、集団で喫煙したのが明らかだったから、現場の警察官が判断して、注意したのだ。注意しても反省もなく態度が反抗的だったから、署で注意するため補導したのだ。そういうことだ」 「証拠もないのに? それとも吸い殻を鑑識に集めさせて、あたしたちが吸ったものかどうか、鑑定させるわけ?」 「そんな面倒なこと、やるわけないだろ」 「ひどい対応だわ。あなた誰? 総務課長?」 「別に、名乗る必要はない」 「ない? 市民が求めたのに、あなた官職姓名を名乗らないわけ? それって違法じゃないの。警察手帳、見せなさいよ」 「い、いい加減にしろっ」  すだれ頭の男は、怒鳴った。 「女子高生が、集団で煙草など吸いおったくせに、偉そうに開き直りおって! すぐお前たちの学校にも連絡して、処分してくれるっ」 「あ、脅したわね」  あの態度のでかさは、なんなのだろう……。  夏子は、少しの間、自分の窮地《きゅうち》も忘れて英理香の剣幕《けんまく》に見入っていた。  理香は、学校に連絡すると言われてもひるまず、逆に制服のどこかから携帯を取り出すと、すだれ頭の管理職を「フン」と目で威嚇《いかく》しながら、耳に当てた。  どこかを呼び出して、通話相手に何か話したと思うと、開いたままの電話を管理職に突き出した。 「うちの親が、話したいそうよ」 「何?」  管理職の男は、うさん臭そうに携帯を見た。 「いいから、話しなさいよ」 [#挿絵(img/01_149.jpg)]  高飛車に言う理香の左右で、グループの少女たちが管理職を見ている。どの顔も、妙に余裕がある。珍しい場所へ来た、という風情《ふぜい》でフロアを見回す子もいる。怖がっているのは、一人もいない。  なんなんだ、あいつら——  だが夏子の思考を、突然、管理職の男のかん高い声が遮る。声——というか、悲鳴だった。 「こっ、こっ、これは——!? 英本部長っ」  本部長……?  夏子は、眉《まゆ》をひそめる。 (なんだ……?)  理香が「うちの親」と言って差し出した携帯の通話相手は、誰なのだろう。 「こ、これは。うちの者が、大変な失礼をっ」  かん高い声が、フロア中に響いた。すだれ頭の管理職の男は、まるで得意先の偉い人としゃべる民間企業の営業マンのように、見えない電話の相手に向かって、ぺこぺことお辞儀《じぎ》をし始めた。 「こっ、これは——うちの不注意な警邏係が、知識不足からお嬢様に大変なご無礼をっ。はっ、証拠。もちろんございません、そんなものは——はっ、結構でございます。すぐにお帰りいただき——はっ、不注意な警邏係の巡査は、私のほうで厳重に注意を……。はっ」  なんなんだ、あれ……。  響きわたる管理職の声に、夏子の前でスーツの婦警がキィと椅子を回して、『やりきれない』というようにそっぽを向いた。  管理職は、フロアのみんなが見ているから、どこかへ隠れて通話しよう——という考えさえ、浮かばないようだ。あまりにびっくりしたせいか。  米つきバッタのように、電話の向こうの相手にぺこぺことお辞儀すると「はい、はい。私どもも今後よく注意いたしまして——はい、現場の者たちにも、よく申し伝えまして指導いたしますです。はい」とかん高い声で謝ると、「ごめんくださいませ」と言いながら丁重《ていちょう》な感じで通話を切った。 「——」 「——」  署員も、連れてこられている民間人たちも、皆があっけに取られて注視する中、管理職の男は赤ら顔から汗を滴《したた》らせて「ふう」と息をついた。 (……)  夏子は、肩で息をしながらハンカチで顔を拭いている五十代の男と、腕組みをしてそれを睨み付けている英理香を、交互に見た。  いったい、何が起きたのだろう。  すると、 「ふ、ふん」  周囲にも見られていることを、承知しているのだろう。赤ら顔の管理職は、ぺこぺこしていた態度を急変させ、顔をしかめた。 「ふんっ、何が。てめえのガキも満足にしつけられねえで、何が神奈川《かながわ》県警本部長だよ。ちっ」  自分の部下たちに聞かせるように悪態《あくたい》をつくと、管理職はそばの屑籠を蹴った。 「くそっ」  どかっ 「——」 「——」  叩き上げらしい管理職の男が、電話を切った瞬間から猛烈《もうれつ》に怒りだしたので、フロアの署員たちは何も口を出せない——という感じて、ただ遠巻きに見ている。 「フフ」  そこに口を開いたのは、理香だった。 「録《と》った? 今の」  すると、 「録ったわ」  グループの一人が、隠して男に向けていたらしい、携帯を開くと理香に画面を示してみせた。 「しっかり、動画に録ったわ。ぺこぺこしたあと、態度が豹変《ひょうへん》。『てめえのガキも満足にしつけられねえで、何が神奈川県警本部長だよ。ちっ』だって」 「おもしろーい」 「なんかドラマの中の人みたい」  美少女のグループは、くすくす笑いだす。 「みっともない大人ね」  理香は、形のよい顎を上げて、腰に手を置いたまま管理職の男を見た。 「パパに、見せちゃおうかしら。これ」  しん、とフロアが静まり返った。 「な——」  すだれ頭の管理職の赤ら顔が、蒼《あお》くなった。  次の瞬間。ずだだっ、と床を蹴る音がしたと思うと、理香に飛びかかろうとする管理職の男と、それを止めようとする若い巡査が、フロアで揉みくちゃになっていた。 「よっ、よこせ。それをよこせっ」 「係長、まずいですよ。手を出したらまずいですよっ」 「うるさい、どけ。この小娘がっ」  だが、 「わあ、女子高生に掴みかかろうとする中年警察官。凄いわ」  横の方からグループの別の子が、携帯のフラッシュを光らせた。 「こら、やめないかっ。その携帯をよこせ」  だが、巡査たちが止める間もなく、理香以外の六人全員が、きゃっきゃっと笑いながらフラッシュを光らせ、何か親指で素早く操作した。 「もう、手遅れよ。友達みんなに、送っちゃった」 「何」 「なんだと」 「今の、動画もかっ」  するとまた、フロア全体がしん、と凍《こお》りついた。  全員が、呼吸を止めて注目する。 「フフン」  理香が、腰に両手を置いたポーズは一つも崩さず、ストップモーションのように止まった警察官たちに言った。 「あたしたちが、お酒も飲まずに健全に過ごしていたところを、言いがかりをつけてこんなところまで引っ張ってくるから、罰《ばち》が当たったのよ。ま、あたしは、録った画像を悪用するつもりはないけれど。でもいったん流出したら、どうなるかしらね」 「ううぅっ」  若い巡査に取り押さえられている管理職が、うなった。 「いい加減にしなさいっ」  夏子の向かいにいた私服の婦警が、ついにたまりかねたように立ち上がると、つかつかと理香に詰《つ》め寄った。 「いい加減にしなさい。警察官の娘なんでしょ。そんなことしたら、あなたのパパも大変なことになるのよ。分かってるの」 「分かってるわ」  理香は平然と、ポーズはそのままにそっぽを向く。 「失脚《しっきゃく》すればいいのよ、あんなやつ」  どうせ本当のパパじゃないんだし——と早口で付け加えるのが、夏子にも聞こえた。 (あいつ……?)  私服の婦警相手に、理香は繰り返し言った。 「あたしは、あたしの機嫌を取ることしか考えていないあんなやつが、次期警察庁長官になり損ねて失脚しようが、どうでもいいわ! だから今録った動画が、誰かにどこかのサイトにアップされて、警察に削除される前に何万回、再生されようが、知ったことではないわっ」 「あなた——」  あいつ……。  だが夏子が息を呑んだ時。 「うくぐっ」  急に、管理職の男がくぐもったうめき声を出すと、若い巡査に抱えられたまま床にくずおれた。  どさっ 「あっ、係長」 「総務係長っ」  床に引っくり返った五十代の管理職の男は胸の辺りを押さえ、「ぐぶぶ、ぐぶぶっ」とうめきながら、口から泡を吹き始めた。汗まみれの赤ら顔は、蒼白に変わっている。  その顔に向かって、 「じゃ、あたしたちは帰っていいわけね。帰る」  英理香は「じゃね」とだけ言うと、管理職の男が倒れたときに手から落とした自分の携帯を拾い上げ、さらさらの長い髪を翻し、背を向けた。 「じゃあね」 「どうもー」  理香たちのグループが、ぞろぞろと出ていく手前の床で、総務係長と呼ばれた五十代の男は「げぼげぼけぼ」と泡を吹いた。 「いけない。心臓だわっ」  私服の婦警が、若い巡査に向かって、壁を指さす。 「大山《おおやま》くん。あそこの除細動器《AED》、取って! 早くっ」 「布施さん。俺、使ったことなくて——」 「いい、私がやる。早くっ」  私服の婦警は、倒れた管理職の男の横に膝をつくと、周囲の事務職や若い巡査たちに指示をして、介抱《かいほう》を始めた。 「係長、前も糖尿《とうにょう》で心筋梗塞《しんきんこうそく》やったくせに、あんなに怒るから——!」  二階の少年係や保安係や交通係のセクションには、ほかに経験のありそうな署員が見当たらない。  おそらく、上の階の特捜本部とかいうところへ、手伝いに駆り出されているのだろう—— (——)  そう思った瞬間。  夏子の頭に、閃《ひらめ》くものがあった。  見回す。  必死に、心臓への応急処置をしようとする署員たち。  その向こうで、中年管理職の署員が倒れて苦悶《くもん》しようと、気にとめるふうもなくフロアを出ていく一団の少女たち。その制服の後ろ姿—— (——七人……。同じ制服が、もう一人増えたところで、周りから見て大した違いはないわ——)  夏子は、唾を呑み込んだ。  今だ。  逃げるなら、今だ。  倒れた中年管理職は、心臓の既往歴《きおうれき》があるらしい。婦警は応急処置をする機材のパッケージを開け、手早く準備している。夏子のほうには、もう注意が向いていない。ほかの署員たちもだ。救急車を呼べ、と言われて電話に走る者もいる。  夏子は、座らされていた回転椅子をそうっと立つと、上体を低くして、フロアの机の列を迂回《うかい》しながら小走りに移動した。二階の出口の、両開きのガラスドアの前で、堂々と出ていく少女たちの一団に迫いつくと、その後尾に何食わぬ顔で加わった。  二階のフロアを、出た。  英理香を先頭に、八人の少女たちはキュッ、キュッとローファーの底を鳴らして階段を下りていく。大勢の署員たちが一階から「どうした」「稔務係長が倒れたぞっ」と声を上げてのぼっていくが、夏子は同じ制服だ。すれ違っても誰も気づかない。  やった……。  これで、ここを脱出できる。  葉子を、捜しにいかなくては……。  どこか、人けのない場所へ逃げ込んで、あいつを呼ぶんだ……。  猫娘に、捜してもらえば—— (しかし)  ふと、夏子は思う。  さらわれる時に、葉子は口を塞がれていた。  猫娘には、困っている人の悲鳴が聞こえるという。  でも葉子は、横長の段ボールに詰め込まれ、宅配トラックで運び出されたのだ。  と、いうことは—— (当然、暴れたり悲鳴を上げられたりすると、困るわけだから——)  白い粘着テープで口を塞がれていた葉子を、思い出す。  もしも。あの母親が今、声を全然、出せない状態だったら。  いや、もしも暴れないように薬品か何かで、すでに眠らされていたら……?  あの猫娘に、『探知』できるのか——!?  そう、不安に思った瞬間だった。  ほとんど横一列で、堂々と正面玄関への階段を下りていく英理香のグループの姿が、天井の照明を受けて玄関の大きなガラスに映り込んだ。 「あら」  グループの一人が、気づいたように振り向くと、言った。 「ねぇ理香、垢抜《あかぬ》けないのが一人、あたしたちに混じっているわ」 「?」 「し——」  しまった……!  同時に、背後の頭上てだだだっ、と足音が響くと、婦警の低い声が叫んだ。 「玄関警備! 重要参考人が一名、逃——じゃなくて許可なく外へ出ようとしているわっ。取り押さえて!」  しまった。  あの婦警だ、気づかれたかっ。 (——!)  夏子はローファーで床を蹴ると、理香たちの集団の真ん中へ飛び込んだ。とっさに、体当たりするように割り込んだ。 「きゃっ」 「何するのようっ」  頭上の踊り場からは「そこの女子高生一名を、外出制限してっ」と声が飛ぶ。一応、任意で出頭しているから「捕まえろ」とは法的に言えないわけか。  でも、逃がす気は全くないようだ。  しかし、 「ど、どの女子高生ですか!?」  玄関の両脇に立つ警備の制服警官は、出口の前で揉《も》み合いになった八人の中から、夏子を見分けられないらしい。同じ制服だ。 「ええいその、一人だけ場違いな三つ編みがいるでしょっ。三つ編みを取り押さえてっ」 「は、はいっ」         5 「取り押さえろ。その一人だけスカートの長い、三つ編みだっ」  玄関警備の制服警官が叫び、エントランスホールに居合わせたほかの署員数人が、わっと出口を塞いで夏子に向かってきた。 「惨殺事件の、重要参考人よっ。どこへも行かせないでっ」  頭上の階段の踊り場で、婦警——あの『布施』と呼ばれていた二十代後半の私服女性警官だ——も怒鳴《どな》った。 (く、くそっ……!)  あとわずかて警察署の正面玄関を出られるところだった夏子は、やむを得ず回れ右をした。キュッ、とローファーの底でホールの床を鳴らし、どこへ走ればいい、とりあえず人のいない方向へ向かった。  キュキュッ  後ろから、カツカツッと階段を駆け下りてくる響き。追ってくる。あの婦警か……!?  廊下へ入り、走る。トイレの前を通過し、さまざまな交付受付窓口の前を駆け抜けると、目の前は行き止まり——いや非常口だ。 「そいつを、捕まえてっ」  なりふり構わず、という感じで後ろから婦警が怒鳴った。 「十人殺害の凶悪犯よっ」 「やめてよっ」  思わず、夏子は叫び返す。一階フロアの、各種交付窓口などに着席していた署員たちは、呆然としたように逃げる夏子と婦警を見送る。三つ編みの真面目そうな女子高生を、「凶悪犯」と呼んで追いかける婦警を不思議そうに目で追っている。  どんっ  夏子は、フロアの端の非常口に身体ごとぶつかると、網入り強化ガラスの扉を押した。非常口だから鍵はかかっておらず、外向きに開いた。  しかし、 「わっ」  夏子は悲鳴を上げる。  な、なんだ……!?  扉を開け放った途端、脚が止まった。目の前に広がった真っ赤な光の奔流《ほんりゅう》に、夏子は思わずセーラーの上着の袖で顔をかばった。 (——!?)  そのくらい、まぶしく感じたのだ。一階の非常扉のすぐ外側。  そこは、警察署裏側の職員駐車場だった。  普段は、署員の通勤に使われる自家用車が並べられているだけだったが、この晩は署に〈特捜本部〉が設置されたため、無数といえるほどの警視庁のパトカーと覆面《ふくめん》パトカーが乗り入れて、ごった返していた。  ほとんどの覆面パトカーは、屋根に付けた赤いライトを回しっぱなしにして、その脇では私服の捜査員たちが耳に無線のイヤホンを入れ、 〈特捜本部〉からの行動指示が出るのを待っていたのだった。  やばい……。  夏子は、すくみ上がった。  目の前の駐車場にずらりと立っているのは、二階や玄関にいた交通係や事務職の署員たちではない。ばりばりの事件捜査員——刑事たちだ。婦警が後ろから「取り押さえてくれ」と一声頼めば、夏子などあっという間に拘束されてしまう。 (まずい——こっちだっ……!)  夏子はとっさに判断して、かかとで向きを変えると、壁の外側に張り付いている鉄製の非常階段を駆けのぼり始めた。  カンカンカンッ 「待ちなさいっ」  数秒遅れて、婦警が上がってくる。カンカンという足音が、重なって響く。 「くそっ」  夏子は、駆けのぼる。  しっこく追ってくる。  逃げるしかない——!  カンカン  折れ曲がって上へ続く、鉄の階段——まずい、この先はまた建物の中へ入る扉か、あるいは屋上か。非常口の扉は、防犯のため外側からでは開かない場合がある。うまくどこか、人けのない場所へ逃げ切れたらいいが。追い詰められたら、まずい……! 「止まりなさいっ、戸田夏子」  カンカンッ、と追ってのぼりながら、真下から婦啓が叫ぶ。 「逃げられないわ。止まりなさいっ」 「嫌よ」  夏子は足を止めす、叫び返す。 「いい加減にしてよっ」  カンカンカンッ  駆け上がりながら、すぐ下から追ってくる婦警に、夏子は叫ぶ。  すぐに、屋上へ出てしまった。  カンッ  非常階段から下り立つと、四階建ての警察署の、屋上だ。  夏子は見回す。宿直用か、留置場で使うのか、物干し竿が教組置かれているだけだ。  人けはない。  しかし、背後から靴音《くつおと》が迫る。  夏子はまた走る。屋内へ戻る扉が、屋上の反対側にあった。駆け寄って、鉄製の扉のノブを掴むが 「くっ!?」  ロックされてる……!? 「無駄よ。そのドアは、外からは開かないわ」  背後の声。  振り向くと、スーツ姿の婦警がつかつかと歩いてくる。 「よ、寄らないでっ」  夏子は叫ぶ。 「本当に、わたしを、〈犯人〉にするんですかっ」 「たぶん、そういう方針になるわ。そして一度、方針が決められたら、もう変えられることはない。決めた偉い人たちの、面子《メンツ》が潰れるからね」 「そっ、そういうことで——」  夏子は叫んだ。 「そういうことて、いいんですかっ。警察って、正しいことをするところじゃないんですかっ」  すると、  カッ  婦警のパンプスの足が、止まった。 「——」  十メートルの間合いを開け、スーツ姿の婦警は立ち止まって、セーラー服の夏子を睨み付けた。 「け、警察は——」  夏子は、肩で息をした。必死に階段を駆け上がって、息が切れていた。 「警察は、そういうことで、いいんですかっ。わたしみたいな、無実の被害者を犯人に仕立てて、自分たちの成績さえ挙げれば、それでいいんですか」 「それでいいのよ」  うんざりした様子で、婦警は腰に手を置いた。 「それが、世の中の仕組みよ」 「警察って、もっと、正義とか」 「正義——?」  婦警は腕組みをすると、噴き出した。 「正義?」 「そうですっ」 「そういうものはね、どこかのスーパーマンとか何かが、覆面でも被ってやればいいのよ」 「でも、あなたは、本当にそう思ってるんですか」 「え?」 「ふ、布施さんて、言いましたよね。あなたは、本当に、いいと思ってますか。だって、わたしを犯人に仕立てて、逮捕して警察の成績にしたって、どうせさっきの電話の相手みたいなどこかの偉い人を、出世させてあげるだけなんじゃないんですか。本当に、いいんですかっ」 「うるさいっ」  婦警は睨んだ。 「ちゃんと、私にもおこぼれはあるわよ」 「おこぼれ? へえ」  よせばいいのに、夏子はまた、思ったままを言ってしまった。 「まるで、犬みたい」 「このっ——……!」  婦警は、コンクリートを靴で鳴らして、掴みかかってきた。 「この世間知らずの女子高生がっ」 「きゃっ」  夏子は逃げた。  しかし、すぐに屋上を囲う手すりだ。 「くっ」  がしゃんっ  思わず、飛びついて乗り越えた。 「こらっ」婦警が怒鳴る。「そんなとこ——変なことを考えるんじゃないっ、こら」  夏子が屋上の柵の手すりを、体当たりするようにして乗り越えたので、婦警は「やめなさいっ」と叫びながらスーツの上着に手を入れた。携帯を掴み出して、耳に当てた(少年係だから移動無線は持っていないらしい)。 「——こちら布施。こちら布施。重要参考人が逃走、屋上から飛び降りようとしているわ。すぐ署前の地上に人員を配置してっ」 [#挿絵(img/01_163.jpg)] (く——)  夏子は手すりを乗り越えて、吹きさらしの屋上の縁に出たが。  ひゆぅうう  駄目だ、逃げ道がない。  四階建ての、ビルの屋上だ。背後には婦警。電話で、応援を呼んでいるのか。  目の前は、街の夜景。真下は警察署前の道路だ。歩道にばらばらっ、と署員たちが出てくる。こちらを見上げて指さす。  駄目だ。 (これじゃ、人けのない場所へ逃げるどころか)  どうしよう——  夏子は、胸のスカーフを掴む。  なんてことだ、一日に二度も、屋上から飛び降りる寸前の状況に追い込まれるなんて……。  もう、『飛び降りて死にたい』とは思わなかった。それよりも、母親を助けにいかなくては。 (どうする)  夏子は、目の前の夜景、真下の歩道に集まってくる署員や通行人、そして背後で「戻ってきなさい」と怒鳴る婦警を見回した。  これでは、人けのないところへ逃げるどころか。身動きができないまま、どんどん大勢に注目されていく……! 「——ウィノア」  夏子は呼んだ。 「ウィノア、出てきてよ」  助けに、きてくれよ……。  捕まったら、わたしは凶悪犯にさせられて、きっと拘束されて葉子を助けになどいけなくなる——  だが、  夏子の耳には、風の音しか聞こえない。 「ウィノアっ」  夏子は、叫んだ。 「出てこい、このばか。そんなに、規則守るのが大事かっ。こらっ」  ひゅぅうう  夏子は、肩で息をした。 (——)  こうなったら——  夏子は、コンクリートの縁のぎりぎりまで、ローファーのつま先を踏み出すと。  じりっ 「はぁ、はぁ」  目の前の夜景を見渡し、セーラーの胸で、大きく呼吸をした。  猫娘。  どこか、その辺で見ているんだろう。  今、引っ張り出してやる……! 「やめなさいっ」  背中で婦警が叫ぶ。 「馬鹿な真似《まね》は、やめなさいっ」  どっちが、『馬鹿な真似』しているんだ。  だが夏子には、振り返って婦警や警察の連中に、言い返す余裕もない。目の前の広い夜空の、どこかで見ているはずの猫娘に向かって、怒鳴った。 「いいよ、分かったわよ。あんたが規則を守んなきゃいけないのは分かったよっ」  聞いているか。猫娘……!  夏子は、大きく息を吸い込むと、 「でも、〈救助〉ならいいんだろっ」  ばっ  ローファーのつま先で、コンクリートの縁を蹴ろうとした。  その瞬間。  ピカッ 「——!」  視界が、閃光で真っ白になった。         6  夏子は、警察署の屋上からウィノア・イプロップに宙へさらわれた時、一瞬、気を失った。 (……!?)  気がつくと。  もう警察署など足下にもなく、西東京の夜景が広がっている。  風の音。  雲のすぐ下の高度か。 「——」  ここは……。  東京タワーが同じ高さで、やや遠くに見える。 「ごめんなさい。ナツコ」  夏子を横抱きにしたまま、猫娘が言った。 「なかなか、助けにこられなくて」  夏子は、息をついた。  来てくれたのか——こいつ……。  やっぱり。 「——いいよ」  やはり、自分のことを、どこかて見ていたのだ。  しかし、 「また、怒られるかもしれません」  猫娘——ウィノアは言う。 「誰に?」 「コーディネーター。実は、つい今まで、呼びつけられて注意されていました。〈行動規範〉は厳格に守るように——って」 「コーディネター?」  夏子が見返すと、ウィノアは形のよい唇で言う。 「この星に来ている|すべて《ヽヽヽ》のボランティアを、監督する立場の者です」 「え」  夏子は、夜景を見回す。  ひょっとして……。 「ねぇ、あんたのほかにも、いるの」この地球に——という意味で訊くと。 「はい」  猫娘はうなずく。 「わたしたちが、陰で支えていなければ、五十公転周期ほど前にこの惑星の高等生命は滅びていたそうです。でも先輩たちみんな、うまくやっているから、あなたたちには気づかれていません」 「そう……」 「高等生命は、護らなくてはなりません。『悪い芽《め》はていねいに摘み取って、大切に育てなければならない』『でも我々の存在を知られてはならない』というのが、団体のポリシーだそうで……。暗記させられるんですよ。派遣の選考を受ける時」 「そう」 「現地でパートナーを選んで、一緒に暮らし始めると、つい〈使命〉を忘れがちになるからって」  パートナー、か。 (……)  そういえは、こいつ——  夏子は、横目で白銀のコスチュームに包まれた猫娘の胸を見やった。  わたしに、何かしろとか言っていたよな……。 「ナツコ」 「え」 「あなたに、謝らなくてはなりません」 「どういうこと……?」  見返すと、猫娘は切れ長の目を伏せた。 「あなたのお母さんが、さらわれていくのを追跡しようとしたのです。でも、コーディネーターから、『すぐに来い』って言われて……。わたし、規則とか逆らえなくて。呼び出されてしかられているうちに、見失ってしまいました」 「——」 「ごめんなさい。わたし——」 「いいよ」  夏子は言った。 「飛び降りるより前に、来てくれたでしょ。今」 「はい?」 「今の、厳密に言ったら〈救助〉にならないよ」 「……」 「怖かったよ。飛び降りようとしたとき」 「ごめんなさい」 「だから。いいよ」  夏子は、息を吸うと、自分を取り巻く世界を見回した。 「何時間か前は、自分から死ぬ気でいたけど——うちの母親を助けなくちゃとか、そんなこと一生懸命考えていたら、忘れちゃったよ」  東京の夜景。  この広がりのどこかに、葉子がいるのだ。  今夜中に始末をつける、とか言っていた。  あの殺し屋たち。 (——)  夏子は、唇を噛む。  警察は頼りにならない。唯一、頼れるのは……。 「ねえ」 「はい」 「わたしの母親の悲鳴、聞こえないの?」 「聞こえません」  ウィノアは猫耳の頭を振る。 「ごめんなさい。見失ってから、分からなくなりました。再探知できません。わたしの耳に、届かないのは、気を失っているか、あるいはすでに——」 「心中させる、とか言ってた」 「心中……?」 「一緒に『自殺』すること。あたしと母親と。でも、あの殺し屋たち、あたしのほうはもう『別働隊が捕まえた』って——おかしいよ。あたし、ここにいるのに」 「誰かと、間違えたんでしょうか」 「間違えた、か——」  その時。  ふいに、閃く光景があった。 (——)  ついさっきの、警察署。  英理香たちのグループに混じって、正面玄関を下りていく時に見えたものだ。  鏡のような大きなガラスに映り込んだ、あの七人と、自分—— (あたしたちの中では、見分けはつくけれど。普段この制服を着ていない、他人の目には……)  そうか。  同じ制服なら、見分けがつかなくなる。  正面玄関の警官が、そうだった。  ならば。  殺し屋の別働隊が、街中で自分を狙って、さらおうとしたのだとしたら……!  その際、何か勘違いをしたとしたら。 (——今日、放課後に学校の外へ出て——あたしと一緒にいた同じ制服の子……)  ——『募金して』 「はっ」  夏子は目を見開く。 「どうしました。ナツコ?」  ——『募金して。十円でいいわ』 (——)  あいつだ。 「——ウィノア」 「はい?」 「悲鳴、聞こえたよね。さっき」 「さっき。学校の庭で、あたしに聞かせたよね。あたしに関係ある子の、悲鳴」 「は、はい」 「まだ聞こえる?」 「いいえ。もう」  猫娘は、頭を振る。 「もう聞こえません」  しかし夏子は訊く。 「どこだった」 「え」 「どっちの方から聞こえた? だいたいでいいわ。覚えてない?」 「ええと——」  ウィノアは、広がる東京の夜景の、一方向を指でさす。  東京タワーの、少し右側。 「——あっちの、距離は見通し圏内です」 「芝浦《しばうら》の方?」 「海岸に近い辺り、だったと思います。確か……」 「飛んでいって」  夏子は言った。 「あたしを連れてって」  ウィノアは、夏子と手を繋ぎ、同じ重力場に入れるようにすると、加速した。  ひゅうんっ  夜気を貫いて、飛ぶ。 「音速を超すと、大変なことになっちゃうので、このくらいの速さでいいですかっ」 「いいわっ」  どのみち、東京都内だ。  ウィノアが「このくらいでいいですか」という速さでも、まるで映像をズーム・アップするみたいに東京タワーが手前に迫り、風圧をこらえているうちに東京湾の景観が目の前に広がった。 「この辺ですっ」  猫娘が、速度を横める。 「この辺りの、どこかです」  空中に止まり、滞空した。 「ウィノア。悲鳴は?」  夏子は、下界を見渡す。  まるでヘリから中継された夜景のように、湾岸地区の埋め立て地に道路が走り、赤いランプの列が道路を流れていく。  空中に浮いている二人の姿は、小さく間に溶け込んでしまい、おそらく地上から見上げて気づく人はないだろう。 「駄目《だめ》です、聞こえません。さっきの人の悲鳴は」 「何か、ほかに聞こえない」 「ほかに——って……」  困った顔(そう見える)の猫娘は、逆に夏子に提案をした。 「ナツコ。わたしの〈聴覚〉を、使ってみますか」 「え?」 「こうするのです」  猫娘は宙て夏子を抱き寄せると、猫耳の生えた頭を、夏子の額にくっつけてきた。  途端に、 「——うっ」  頭の中に、この世の『音』が全都入ってくる!?  夏子は眩暈《めまい》に、空中で引っくり返りそうになる。  白目を剥《む》きかける女子高生を、猫娘が「大丈夫ですか」と抱きとめる。 「はぁっ、はぁっ、びっくりした」 「意志で『選択』しないと、|何もかも《ヽヽヽヽ》聞こえてしまいますよ」 「何よ、今の」 「見通し圏内の、すべての『音』です」  すべて……? 「わたしと〈融合〉しないと、能力はうまく使えません。パートナーとして、一緒になってもらえないと……」 「どさくさに、言わないでよ。そんなこと」 「でも」 「何か、聞こえない。立木容子に関係のある音」  今日の午後、学校の外の人目につく場所で、自分と一緒にいた同じ制服の子。  あいつ——立木容子だけだ。  募金活動をしていた、立木容子。  募金。 「ウィノア」 「はい」 「もういっぺん、音を聞かせて」 「意志で、ちゃんと『選択』しないと——」 「分かってる。こんな音を聞きたい、とか思えばいいわけ」 「そういう、感じですけど」 「聞かせて」  夜の湾岸地帯の空中に浮いたまま、もう一度、夏子は猫娘とおでこをくっつけた。 「——うっ」  また、強烈な眩暈。  こらえる。 (聞こえろ。聞こえろ)  念じた。 「ナツコ」  心配そうに、猫娘が横目を向ける。 「〈融合〉しないと——」 「うるさい、気が散る」  夏子は、眩暈をこらえ、周囲のすべての『音』に集中する。悲鳴は聞こえない。人の話し声のようなものは無数にしているが、まったく判別できない。駄目だ、下は湾岸の倉庫街だから人は少ないはずだが、話し声は数があまりに多すぎてまるで潮騒《しおざい》だ。  これでは、確かに『悲鳴』でもあげてもらわないと、無数の話し声から誰かの声を拾い出すなんて、無理だ。まして気を失っていたら—— (——くそっ……!)  夏子は、渋谷の駅前で募金箱を手に、声を張り上げていた立木容子の姿を、必死にイメージした。  すると、  じゃらっ  なんだ。 (……!?)  何か、聞こえた。  今の特徴ある『音』は——  じゃらじゃらっ 「——!」 「どうしました。ナツコ」  眉根を寄せて、辛そうな形相の夏子を、ウィノアが横目で見た。 「き、聞こえたっ」  夏子は、猫娘から額を離すと、肩で息をしながら周囲を見回す。 「今の、とこだ。今の」 「何が、聞こえたのです」 「段ボールの中で、お金が動く音。しかも、情けなく少ない……。情けなく少ないお金の入った段ボールなんて、募金箱しか考えられないわっ」 「は?」 「どっちだ。あっち、そうだ、あっち」         7 「情けなく、少ないな」  四角い段ボールに、紙を貼っただけの箱を振って、男がつぶやいた。  湾岸地区の倉庫街は、夜になると人けがなくなり、その空間に伝わってくるのは、近くを通っている高速道路の走行音だけだ。 「そんなものを、一緒に持ってきたのか」  もう一人の男が言う。 「大事に抱えていて、離そうとしなかったのだ。仕方がない」  コンクリートの壁に囲われた四角い空間は、天井が高く、数少ない窓からは高速道路のテールランプの列が見下ろせる。大規模な倉庫ビルの、上層階だということが分かる。  頑丈な柱で支えられた屋上へと続く鉄階段の横には、『禁煙』『航空燃料 危険』という黄色と黒の縞模様《しまもよう》のプレートが貼られている。  しばらくは静寂が続いていた。  男たちは、全員で五名のチームだった。  それぞれの〈任務〉を終えて集結し、次の行動に移る準備をしていたが。  そこに、彼らの『雇い主』からクレームが入り、待機が命ぜられていた。 「いろいろ予定が狂ったのは分かるが。早く始末をしないと、麻酔《ますい》も切れるぞ」  一人のメンバーが、空間の隅に縛り上げて転がした、彼らの〈獲物《えもの》〉を見て言った。  四十代の女性と、十代の制服の少女はいずれも口を粘着《ねんちゃく》テープで塞がれ、薬品で眠らされていた。 「銃撃斑のメンバーは、なぜ捕まったのだ」 「分からぬ。逃走経路も確保していたはずだ」  そこへ、  ガチヤ  鉄製の扉が開くと、表で見張りをしていた作業服姿の男に先導され、人影が一つ、入室してきた。  男たちと印象が違い、せかせかした歩き方。 「ええい」  影は、かん高い声で言った。 「私がみずからここへ来るのが、どんなに危険だか、分かっているのかお前たちはっ」 「——」 「——」  たむろしていた男たちが、それぞれ立ち上がって影を迎える。  照明の下へ出てくると、人影は背広姿と分かる。  三十代後半。髪の毛をきっちりと分けている。  会社員風の、やや細面《ほそおもて》のその男は、カムフラージュ用の作業服を着た男たちを見回し、次いて廃棄《はいき》マットの上に転がされた女性と少女の二人を見やった。  その制服の少女の方を見て、「うっ」と困った顔になり、続いて「ちっ」と舌打ちした。 「やっぱり、違うじゃないか。念のため、顔写真をメールで確認してよかった」 「どこが、違うんだ」  男たちの中のリーダー格が、立ち上がって訊く。 「渋谷の駅前で、あんたの指示どおりにした」 「違う、違う」  背広の男は、神経質そうに頭を振る。 「後方から、ちゃんと電話で指示しただろう。そこの募金をしている、真面目そうな白セーラーの女子高生を尾行《びこう》して、拉致《らち》しておけと」 「だから——」  リーダーの男は、眠らされて横たわる制服の少女を指さす。 「募金をしていた、真面目そうな白いセーラー服の女子高生だ」 「あぁっ。違う違う」  男は、指示をするのに使ったものか、自分の携帯を取り出すと振ってみせた。 「私が、電話で言ったのは——ああもう、遺書も何もかも準備してあるんだぞ。揚《あ》がった死体が違っていたら——」  その時、  がたっ  メンバーの一人が、何かに反応したように立ち上がると、屋上への階段へ拳銃を向けた。 「何者だ」  その一分前。  夏子は、ウィノアに方向を教えて、屋上へリポートを持つ大規模な倉庫ビルにたどり着いた。  駐機してある大型ヘリの機体の脇に、猫少女と手を繋いで着地すると、そこは無人だったが。 「ナツコ。この下の階に、人がいます」  ウィノアは言う。 「殺し屋たち? さっきの」 「分かりませんが——危険な凶気があります。殺戮者《さつりくしゃ》の。学校で暴れた者と同じ」 「うちの母親と、立木は?」 「寝息のような呼吸が、二つ、微かに」 「分かった」  夏子はうなずく。  凶気……。学校に現れた乱射犯と、同じ気配を持つ者たちか——  この下に、あの殺し屋たちがいるのか。 (——募金箱の音は、今確かに、この建物の中から聞こえた……)  寝息が二つある、とも猫娘は言う。この下の階に、自分と間違われて拉致されたらしい、立木容子がいるのだろう。そして母親もたぶん——  母娘が心中をした、というように見せかけて殺すつもりか……。  いったい、誰の命令で。  なんのために……!? (くそっ)  だが夏子は、制服のポケットから自分の携帯を取り出そうとして、舌打ちする。  しまった 「どうしました?」 「携帯が、ない」  思い出す。さっき警察署で、取り上げられていた。  あの婦警だ。畜生。『しばらくは使用禁止』だとか言って、ゴムひもで札を付けて、どこかのロッカーヘしまっていた。 「——」 「どうしました……?」 「いや、警察——呼べないし。どうせ呼んだって、頼りになるかどうか、分からない」  息をついた。  どうすればいい……? (どうすればいいんだ)  下にいるのは、あの殺し屋たちだ。 「あの、ナツコ」 「ん」 「下に、人がいるんです」 「だから?」 「……」  今度は、ウィノアが黙ってしまう。 「——」 「……」  夏子とウィノアは、そのまま数秒間、黙って見つめ合った。 「何者だっ」  殺し屋——その非合法エージェントのメンバーの一人が、銃を向けると、  キュッ  革靴の底が、鉄階段を踏みしめる音がした。 「なんだ」 「なんだ?」 「何奴《なにやつ》」  メンバーたちが、訓練された反応で一斉に各自の服装のどこかから銃を抜き、構える。映画に登場する特殊部隊のような素早さだ。 「誰だっ」  リーダー格が、普通とは微かに抑揚《よくよう》の異なる日本語で、誰何《すいか》した。 「そこにいるのは、誰だ!?」  すると、  キュッ  体重の軽さを示す軽い靴音は、階段の途中で止まり、照明の下にベージュの上着の制服姿が現れた。 「——」 「——?」  国籍不明の殺し屋たちは、薄暗い空間に白く浮かび上がるその姿に、目を見開いた。  こいつは——  なんだ。 「わたしは——」  現れた三つ編みの女子高生は、言いかけたが。銀縁眼鏡の下の目で階段下の様子を見やると、つぶやいた。 「あ、やっぱり」 「——!?」 「——?」  殺し屋のメンバーたちは、そのほっそりした少女の妙な落ち着きを、本能的に異様に感じていた。  なんだ。こいつは——  まさか、同業者か。 「な、何が『あ、やっぱり』だ。貴様、どこから入った」 「何者だ貴様は。どこかの国のエージェントかっ」 「我々と同様、この国へ出稼《でかせ》ぎにきたかっ」 「何言ってるのよ」  三つ編みの少女は、視線で空間の奥を指す。 「わたしは、そこの二人の知り合いよ」  そこまで言いかけ、階段の女子高生はふと、見えない誰かに話しかけられたように斜め上を見て、 「実の母親を——って、いいのよ、うちはそういう関係なんだから」  と言った。 「?」 「?」  銃を構える男たちは、わけが分からぬ、という表情で視線を交わし合ったが。 「こ、殺せっ」  リーダー格が命じた。  だが、 「いや待て、いや待て」  素早く、どこかの物陰に隠れていたのか。後方から背広の男がわめきながら飛び出してくると、リーダー格を制止した。 「おい、そいつは戸田夏子だ。本物《ヽヽ》だ」 「何」 「なんですと」 「すぐに捕まえろっ。どこからここへ入り込んだか分からんが、千載一遇《せんざいいちぐう》が葱《ねぎ》を背負《しょ》ってきたっ」  すると、 「そのひどい日本語。やはり」  三つ編みの女子高生は、背広を睨んだ。 「あんたが、やらせてたのね。木下課長補佐!」 「私の名前を、言うんじゃないっ」  かん高い声で背広は命じた。 「取り押さえろっ」  だが、  シュッ  空気を切るような響きが、コンクリートの壁に反響すると、次の瞬間、襲いかかった殺し屋の一人が真上へ吹っ飛んで消えた。 「う、うわぁああっ」  作業服のいかつい殺し屋は、コンクリートの天井にぶち当たると跳ね返り、葉子と容子が寝かされた廃棄マットの上に落下した。  どさっ 「ぐう」  もんぜつ  悶絶《もんぜつ》した。 「な」 「な——」  驚く男たちの前へ、階段の途中から女子高生はふわりと舞うと、スカートを広げて着地した。まるで体重がないかのような動きだ。 「何をやってる、取り押さえろっ」  だが続いて襲いかかった大男を、女子高生は細い腕でばしっ、と受け止めると、あろうことか高々と宙に持ち上げた。 「う、うわっ、うわっ」  信じられぬように注視する殺し屋たちの前で、女子高生はばたばた暴れる大男を持ち上げたまま、また見えない誰かに話しかけた。 「ウィノア。これ、どうすればいい? えっ、投げろ? こう?」  びゅっ 「うわぁわぁああっ」  大男は悲鳴を上げて飛んでいくと、コンクリートの空間の向こう側の壁まで放物線を描き、激突して下へおちて動かなくなった。  ぱん、ぱん  三つ編みの女子高生は、手の埃《ほこり》を払った。 「さて。知り合いを、返してもらうわ」 「う、撃てっ、殺せ」  リーダー格が命じ、残り三人の殺し屋が黒い拳銃を向けた。 「——」  その動きを、夏子は眼鏡の下から見た。  視界の中。  もの凄くゆっくり、大男三人が銃を向けてくる。そう見えた。 「ウィノア、どうすれはいい?」  自分の中に訊くと、 『銃弾は、怖くないわナツコ。避けて、銃を掴まえて』 「わかった」  自分の中で、猫娘が助言するのにうなずき、夏子は三人の殺し屋へ向けダッシュした。銃弾が、白い軌跡《きせき》を曳《ひ》いて右の三つ編みのすぐ横を擦過《さっか》したが、見えているので怖くない。  ウィノアの言うとおりだ——  妙にゆっくり動く、三人の大男。そのすべての手から黒い銃器をはたきおとすのに、二秒とかからない。  シュッ  すれ違って、振り向くと。 「わ」 「うあわ」 「うわ」  三人は、何が起きたのか理解できない表情て、拳銃の消し飛んだ手を痛そうにさすっている。 「き、き、貴様、何者だっ」 「中国かっ」 「我々を、排除しにきたのかっ」 「かなわん、退却しろっ」  わけの分からないことを言い合うと、男たちは我先に鉄階段へ逃げていく。  そのあとを、 「お、おい待て、待てと言っている!」  木下課長補佐——東海道自動車の人事部の男が走って追いかける。 「契約した仕事は、最後までやれぇっ」 [#挿絵(img/01_183.jpg)] 「あいつ——!」  夏子は睨みつけるが。 『お母さんの介抱《かいほう》が先です。ナツコ」  夏子の中で、ウィノアは言う。 『お母さんと友達を、助けてあげなさい』         8 「しっかりしろっ」  夏子は、だだっ広いコンクリートの空間の隅に、市場のマグロのように転がされている二人へ駆け寄った。  確かに、二人だ。  母親の葉子。自宅からさらわれた時のまま。  立木容子は、制服姿。渋谷の駅前で募金活動をしていた時のままだ。  膝をついて、覗くと。 (——)  よかった  夏子は息をつく。  転がされた二人とも、微かに胸が動いている。 (——よかった、死んではいない)  薬品で、眠らされているのか。 「立木」  夏子は、色白の少女のほつれた長い髪を、額の上から指でのけてやる。  わたしと間違われて。かわいそうに……。  まず容子の顔の下半分を覆っている粘着テープを、つまんではがした。桜色の唇が現れ、ぷはっ、と少女は息を吐くが、目は閉じたままだ。  続いて、 「あんたも、無事か」  すると、 『お母さん、と呼んであげたらどうです』  夏子の中で、ウィノアが言った。 『実のお母さんでしょ』 「うるさいな、さっきから」 『だって。お母さんを「あんた」なんて呼ぶのは、変でしょ』 「世の中には、いろいろあるのよ」  葉子の粘着テープを、はがしてやっていると、  ふいに、  キィイイイン……!  分厚いコンクリートの天井から、タービン・エンジンを始動させる音が伝わってきた。 (——!?)  夏子は見上げる。  キィイイイインッ  屋上の、ヘリコプターか……!?  たちまち爆音は高まり、慌ただしく屋上を飛び立っていく気配。建物全体が、ヴォオオオン、と叩きつけられる爆音で震える。  行ってしまう。  爆音が小さくなる。  あいつら、『退却だ』とか言って——屋上へ駆け上がっていったけれど……。  夏子は思った。  今のヘリで、逃げたのだろうか。  さっきの黒い大型の機体は——まさか、あの殺し屋たちのものだったのか……? (ヘリコプターを使う殺し屋……)  いったい、どんな組織なんだ——  あの木下課長補佐も、一緒に逃げていったのか。 「……」 『悪い芽を摘み取るのは、あとです。ナツコ』 「……そ、そうね」  夏子は見回す。  ここは、殺し屋たちの根拠地《こんきょち》なのか。  床に敷かれた廃棄マットのすぐ脇には、たった今、夏子のぶっ飛ばした殺し屋——国籍不明の戦闘員のような男が、悶絶《もんぜつ》したまま倒れている。  こんなところに、いつまでもいたくない。  でも、どうやって、二人をここから運び出そう。  葉子と容子は、ロープを解《ほど》き、揺すっても、起きる気配がない。何か強力な薬品で眠らされているのだろうか。  急いで、病院へ運んで診《み》てもらったほうがいいかもしれないが  考えていると、 『二人いっぺんに、担いで飛べばいいでしょう』  ウィノアが言う。  猫娘は、夏子の中で、意識に直接話しかけてくる。 「あ。そうか」  夏子は、二人を片手で片方ずつ持ち上げてみた。すると、まるで軽い人形のように二人を両方の肩に乗せられた。  そうか。  わたし、〈融合〉したんだっけ。こいつと——  数分前の出来事を、思い出す。  わたしと、こいつは。お互いの必要があって、折り合ったんだ……。 (……)  それは不思議な感じだった。  白い光となって、猫娘が自分の中へ吸い込まれるように入ってきた時——  嫌な感じはしなかった。異物に侵入されるというより、何かほのぼのとした温かいものが、自分の中の隙間にしみ込んでくる——そんな感じだった。  ウィノア・イプロップと一緒になった自分は、殺し屋たちに立ち向かうことができた。怖いとは思わなかった。 「二人を、どこか近くの病院へ運ぼう。ウィノア、飛ぶわ」  一分もしないうちに、飛び上がった夜景の中に赤い十字の印を見つけると、夏子は港区《みなとく》の一画にある大きな病院の裏庭へ降り立った。 (でも、変に見られないかな……)  葉子と容子を、両脇に抱えるようにして、救急外来のガラスドアをくぐる。  ちょうど目の前の通路を、コーヒーカップを手にした白衣姿の医師が通りかかって、こちらに気づいた。 「おう。青香女学院の生徒さんじゃないか? どうした」 「あ、あの、ちょっとこの二人——」 「どうした。とりあえず診《み》よう」  若い医師は、当直だろうか、少し疲れた感じだったが夏子と容子の制服を認めると、すぐに看護師に指示をして診察室のベッドを用意させた。  葉子と容子は、シーツの上に寝かされて、医師の指示で酸素吸入が施《ほどこ》され、検査機材が慌ただしく運び込まれてきた。 「二人とも、意識がないようだ。事情はあとで訊くから、君は待合室で待っていなさい」  医師は聴診器《ちょうしんき》を耳につけながら言った。 「一人で、ここまで運んできて、ご苦労だった」 「は、はい」 「青香は、夕方大変な事件があったようだし。ショックを受けた人も多いだろう。君も、気持ちをしっかりな」 「はい」  夏子は、うちの制服って効き目あるなぁ、と感心しながらとりあえず診察室を出たが。  すぐに気づいて戻り、寝かされた容子の制服のポケットを探って、ピンクの携帯を取り出した。 「この子の、家族に連絡しますので」 「どうぞ」  検査機材を身体につけている看護師がうなずくと、夏子は容子の携帯電話を手に、診察室を出た。  ドアを出る時、振り向いて葉子の顔を見た。母親の寝顔は、やはり疲れた感じだ。  キュッ  靴を鳴らし、廊下に出た夏子は、少し早足になった。  あの二人は、ここへ置いておけば、もう安全だ。 「——」 『ナツコ』 「——分かってる」  夏子は銀縁眼鏡の下で、視線を上げる。  さらに早足で歩く。  病院の玄関口へ向かう。 「お父さんの仇を、討ちにいくわ」 『ナツコ。わたしたちは正義のボランティアです。恨《うら》みによる復讐《ふくしゅう》は、駄目です』 「うるさいわね、じゃあどう言えばいいのよ」 『悪い芽を摘み取りに。彼らは放っておけば、また殺戮を繰り返します』 「放っておかないわよっ」  夏子は小走りに救急外来の出入口を出ると、周囲に人目がないのを確かめるが早いか、跳んだ。  制服のまま、夜空へ飛び上がった。  ひゅぅううっ  東京の湾岸地区の上空。  東京タワーが、すぐ横の方に見える。 (——どこだ)  夏子は、夜気の中に滞空すると、先ほど飛び去ったヘリコプターの行方《ゆくえ》を目で捜す。  どこへ、飛んでいった。  もう、十分以上過ぎている。  だが、逃がすものか。 (——)  目を閉じる。音。さっきの、あのヘリコプターの音。 「——聞こえた」  いた。  夏子は目を開く。  ずっと南の方角——東京湾の、海の上か……! 「ウィノア」 『超音速で、追いかけましょう。ナツコ』 「どうすれはいい」 『念じて』 「念じる?」 『スピードを』 「——」  夏子は、また目を閉じた。  青いスカーフの胸に、息を吸い込んだ。  飛べ。 (飛べ。思いきり、疾《はや》く……!)  シュバッ  突然、重力の方向がおかしくなったんじゃないか——!? と感じるくらい凄い力で、夏子は横向きに引っ張られた。 「う、うわっ」  ぶわーっ  風圧。  夏子は夜の東京湾の上空を、猛烈な加速度で横向きにぶっ飛んだ。  眼鏡が、顔から吹っ飛ぶ。 「きゃっ」  空気抵抗で、服が—— 『ナツコ。音速を超すわ。備えて』 「——えっ」  備えるって、何を……!?  ばしっ  衝撃波《ソニック・ブーム》。 「うっ」  音速突破の衝撃だ。夏子の身体から制服が——いや身につけていた衣服がすべて弾け飛んだ。  同時に、  ピカッ  凄まじい白い閃光に全身が包まれる。 (うわっ、服が。下着が——三つ編みがほどける、眼鏡が吹っ飛んだ、誰か、なんとかしてっ……!)  だが次の瞬間。  すべての衣服が吹っ飛び、空中を錐《きり》のように回転する夏子の裸身に、輝く金属粒子のコスチュームがまばゆい閃光とともに蒸着《じょうちゃく》した。 「——!?」  両腕で顔を覆っていた夏子は、自分の胸を覆っている白銀のコスチュームに気づき、息を呑む。 (こ、これ猫娘と、同じ格好……!?)  やだ、エロい。 『ナツコ』 「えっ、なんなのよこれっ」 『追いつきますよ』 「えっ?」 [#挿絵(img/01_191.jpg)]  前方の視界にやっと目を向けると。  映像の早回しのように、黒い海面が手前に猛烈な勢いで吸い込まれ、左右に千葉《ちば》と三浦半島《みうらはんとう》の灯《あかり》が流れるように動いていく。その視野の真ん中に、標識灯を消してどこかへ急ぐ様子の黒いヘリコプターが、ピンで留められたように浮いていた。 (あれだ。追いついた……!)  そのヘリコプターの機内では。 「ええそれでですね、ええそれでですね専務。そういうわけで、判決の前に原告が全部いなくなるという、当初の方針は諸般《しょはん》の事情により変更するとしてですね。いえですね、かかった経費が、確かに莫大《ばくだい》ではあるわけで——」  後部座席に座った、東海道自動車人事部課長補佐木下|貴文《たかふみ》(37歳・一橋大《ひとつばしだい》卒)は、携帯を手にどこかの誰かに向かってぺこぺこと頭を下げていた。 「ええですから、某国特殊部隊の出稼ぎ斑とですね、もう一度、計画を詰めまして——えっ、責任? 私の責任……? いえですが専務、これは社命で——えっ、そんなことは知らない? そんな『計画』は存在しないって、ちょっと待ってくださ——うわ」  突然、ヘリコプターが壁にでもぶつかったかのように空中て停止したので、ただでさえぺこぺこしていた木下は、前の座席に思いきり頭をぶつけた。  もの凄い、急停止の後ろ向きG。 「ぐわっ、な、なんだっ」  だがそれ以上に、ヘリの操縦に当たっていた男たちは計器パネルに上半身を叩きつけられ、もんどり打ちながら驚愕していた。 「なっ」 「なんだ」 「どうしたっ」 「リーダー、あ、あれを……!」  一名が、前面風防を指さすと。 「——」 「——」 「——」  乗っていた全員が、絶句した。 「な」  信じられないように、リーダー格の男がつぶやいた。 「なんだ、あれは」  見ると。  機体のすぐ外には、星明かりにも輝くような白銀のコスチュームの少女が浮いていて、その細腕でヘリの機首を押さえて、止めているのだった。  そして。  乗っている殺し屋——某国特殊部隊出稼ぎ斑のメンバーたちは、顔色を失った。  屈強の男たちを、本能的な恐怖が震え上がらせた。  白銀の少女が、なんだか知らないけれど凄く怒っているのが、分かったからだった。 [#挿絵(img/01_195.jpg)]   エピローグ  それから、一週間以上が過ぎた。  夜の東京タワーのてっぺんに、突如、黒い大型ヘリコプターが串刺《くしざし》しになって止まった——という大珍事件は、しばらく人々の関心を引きつけたが。  なぜか新聞、テレビなどのマスコミ各社は最初の一晩こそ大騒ぎしたものの、警察当局から『大変珍しいが単なる事故である」という公式発表がされると、急速に報道は鎮静化《ちんせいか》した。  新聞も、ヘリに乗っていたとされる四人の男たちのその後については全く続報もせず、突き刺さったヘリコプターを除去する工事についての情報を、囲み記事で伝えただけだった。  救助された(一説によると、なんらかの恐怖のあまり、精神的に不安定な状態になっていたとされる)男たち四人が、警視庁の車に乗せられたあと、どこへ連れていかれたのか。テレビのワイドショーも、全く話題にすることはなかった。  一方で、主要新聞各紙には、東海道自動車(株)のカラー見開き全面広告が、実に七日間にわたって連続掲載され、人々の注意を引いた。テレビでも『東海道の新型ハイブリッド車と企業イメージ』のスポットCMが七日にわたり、通常の三倍流されたのだった。  これについて東海道自動車(株)の広報部担当者は「若者に当社のクルマの素晴らしさを知ってもらうため、急遽《きゅうきょ》、打たれた大キャンペーンです」と発表し、マスコミ各社もこれを報道した。  しかし。  同じ頃、並行して、インターネットのある動画サイトに奇妙な映像がアップされていたのだった。 『——助けてくれ、助けてくれっ。分かった、しゃべる、しゃべるから助けてくれぇっ!』  その映像は、どう観ても、本物の東京タワーのてっぺんに串刺しのように突き刺さったヘリコプターの開いたドア(胴体扉がなんらかの力によって、引きちぎられるように半分外れていた)に背広姿の三十代の男がしがみつき、まるで木にしがみつく蝉《せみ》のように泣きながら、命ごいをしているものだった。  ヘリの機体は、タワーのてっぺんのアンテナに、モズの速贄《はやにえ》みたいに突き刺さっていた。  夜の上空の風圧で、ぐらりぐらりと大きく揺れ続けているヘリ。そのたびに、機体の下に広がっている夜景の灯が、宝石箱が揺れるみたいに画面に映り込んだ。  映像は、いったいどうやって撮影したのか、その機体の外れかかったドアの『外側』から、泣き叫ぶ男の顔を時々アップにしながら三分間、続いていた。 『ばらしてやる。全部ばらしてやる。畜生、こうなったら全部しゃべってやるっ。いいか、東海道自動車の最高経営責任者《CEO》と主流派閥の役員らが共謀して、若年従業員の労働条件を野党議員と組んで改善しようとした当時の労務部長を、事故に見せかけて消したんだっ。その家族が労働者団体に支援されて労災訴訟を起こすと、まずいことがばれるからと、労働者団体と家族も全部消そうとしたっ。その実行犯は、国交正常化後に工場を建てる予定の某国から連れてきた出稼ぎ特殊部隊、現場でコーディネーションしたのは俺だっ』  三十代の男は、上空の冷気と、その目の前にいるらしいなんらかの『恐怖の対象』におびえ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら叫ぶように『告白』を続ける。 『そのほかにも、俺は役員会の命《めい》を受けて、会社にとって都合の悪い人間たちを、事故や自殺や内ゲバに見せかけて何人も何人も消したっ。なのに、現場で一番功績を挙げた俺を、総務部長に据えるどころか、担当役員はたった一回の失敗で、き、き、切り捨てやがった。畜生、会社の繁栄《はんえい》を陰で支えてきたこの俺を。こうなったら、全部しゃべってやる。俺一人で、こんな悪事ができるはずがないんだっ』  その背広の後ろには、作業服のような服装のいかつい体格の男たちが三人、一様に恐怖に引きつったようなポーズのままで、機内の座席であちこちを向き悶絶《もんぜつ》しているようなのだった。  男は一人で、しゃべり続けた。 『東海道自動車は、某国特殊部隊出稼ぎ班を密かに日本へ入れるために、外務大臣に一億円払ったっ。数々の犯行を、事故や自殺として見逃させるために、警察庁長官へ十億円払った! 嘘じゃないぞっ。疑うなら金の流れを調べてみろ。口座はまず××銀行の、××支店、番号は——』  ぱたん 「——」  夏子は、カフェのテーブルで携帯を閉じた。  ふう、と息をつく。  土曜日の午後。  通常は授業のない日だが。  あの乱射事件でまるまる一週間、青香女学院は休校になっていたので、カリキュラムの遅れを取り戻すために『臨時登校』となったのだった。  久しぶりの学校帰りだ。 (それにしても一週間で、全世界で一億ヒットか……。凄いな、こんなになるなんて——)  初めに夏子の投稿した画像は、すぐに何者かによって削除されたが。しかし一般ユーザーによってコピーにコピーを重ねられ、今や『東海道自動車』で検索すると、必ずトップにこの画像が出てくる。 『外務省』『警察庁』でも、同じだ。 (立木に借りた携帯は、音速を突破する時にどこかへ吹っ飛んじゃって……。結局、あの男から携帯を取り上げて、録画したんだよな——)  画像をアップするのにも、木下課長補佐の携帯を使ったから。初めの投稿は、映っている本人からのもの、ということにされている。  ありがたかったのは。  木下課長補佐が『警察庁長官に十億円払った』としゃべってくれたせいか、警察が、急に低姿勢になって、夏子を重要参考人として任意同行させたことを詫《わ》びてきたことだ。  おかげで、携帯も返してもらえた。 「——もっとも、あの婦警……。最後まで謝らなかったよな」 『ナツコ』 「ん」 『許して、あげましょう』 「うん」  夏子は、自分の中の声にうなずく。 「あの人のおかげで、あんたと一緒になったようなものだもんね。結果的に」  ふう、と夏子は伸びをする。  穏やかな、晴れた午後だ。  これから、神谷町《かみやちょう》のJ医大病院まで、母親と立木容子を見舞いに行くつもりでいた。  尾山台の自宅には、あれからは荷物を取りに一度戻っただけで、帰宅していない。警察がまだ事件現場として押さえているし、あんな怖いことがあったから、もう住めないだろう。  低姿勢になった警察が、ご不便でしょうから、とビジネスホテルを夏子に提供してくれていた。 「いっそのこと、何もかも新しくするか——」  夏子はつぶやく。 「あんた、いつまでいるの」  いつまでいられるの、というニュアンスで夏子は訊く。  ウィノアと話す時、夏子は誰もいない空間に向かってしゃべることになるので、変に見られないよう周囲には気を付けないといけない(もっとも、もう慣れてきた)。 『あなたと、仲良くしていられる限り、ずっとです。ナツコ』  姿は見えないが、猫娘は言う。 「仲良くしていられる限り、ずっと?」 『はい』 「ずっとずっと?」 『はい』 「ずっとずっと、将来も?」 『はい』 「この、エッチ」 『は?』 「冗談よ」  夏子は、テーブルを立ち上がった。  カフェの外は明るい。 「しばらくいなよ、ウィノア。わたし——これまで友達、いなかったし」 『はい』  ウィノアも、夏子の中てうなずいた。 『わたしもです。ナツコ』 [#地付き]〈たたかう! 図書委員〉了[#「〈たたかう! 図書委員〉」はゴシック体] [#改ページ] [#見出し]  あとがき  というわけて青香女学院《せいかじょがくいん》高等部二年・戸田夏子(17歳)は、異星人ウィノア・イプロップと一緒になり『地球の平和を護る正義のボランティア』をする(させられる)ことに、なってしまいました……!  皆さんこんにちは。水月郁見《みずきいくみ》です。  日常、テレビや映画を観ておりますと。おしなべて正義のヒーロー(ヒロイン)の闘いというものは、孤独なもののようです(それはもう、〈ロンリー仮面《かめん》ライダー〉という歌があるくらいです)。  ではなぜ、彼ら(彼女ら)の闘いは、孤独なのでしょうか……?  それは、誰も(本人を)ほめてくれないからです。  正体を隠して活躍するのだから、本人が世間からほめてもらえなくても、認められなくても、仕方がないといえば仕方がない。  でも、一生懸命やったのに、誰もほめてくれないと、そのうちに人間はどうなるのでしょう。  それはもう、耐え切れないほど孤独になるのです、ええ。それはもう本当に、一生懸命やったのに認めてもらえないと嫌になるほど孤独で、「頼むから誰か認めてくれ、俺をほめてくれ」と言いたくなる。家で飼っている猫でもいいから自分をほめてくれ。よくやったと言ってくれ……!  呼吸を整えまして。  正義の味方の闘いとは、そもそもなんなのでしょう。  作者は思います。それは『ボランティア活動』にほかならない——と。  主人公は、誰に頼まれたわけでもない。法的権限もない。  闘って悪を倒したり、人命を救助したりしても、もちろん報酬《ほうしゅう》はない。  正体を隠して活動するわけだから、誰にもほめてもらえない。そればかりか事件が起きた時には、本業を投げ出して駆けつけなくてはいけない。  もちろん生活の足しにならないばかりか、逆に活躍するほど同僚や上司からは非難されてしまう。  スーパーマンのクラーク・ケントは本業が新聞記者だったから、事件現場で大事な時にいなくなってもなんとか仕事になったけれど。でも、もしも彼がテレビの報道マン、特に現場レポートをする報道記者だったりしたら、商売にならないだろうね——そういった会話から発想して、以前、現場レポート役の新人女子アナウンサーがスーパーガールにさせられてしまうという、〈たたかう! ニュースキャスター〉を書いたことがあります。  今回の朝日ノベルズ〈たたかう! 図書委員《としょいいん》〉は、その姉妹編です。主人公のスーパーガール夏子は、図書委員の女子高生です。高二ですから、これから進学もあるでしょうし、大変です。  作者としましては、せめて夏子の試験中に事件など起こったりしないよう、切に願うだけです。